開国
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3月3日(3月31日)、アメリカ合衆国日米和親条約が結ばれ、下田箱館を開港し、8月にはイギリス日英和親条約が、12月にはロシア帝国日露和親条約がそれぞれ締結される。

並行して、幕府は嘉永6年9月には大船建造の禁を緩和、10月には海外渡航が解禁される。嘉永7年9月にはオランダ商館に蒸気船2隻を発注した。その内の一隻である咸臨丸は、安政7年1月(1860年2月)に木村芥舟勝海舟らを乗せて横浜を出航、太平洋を渡った(米国軍艦で渡米した万延元年遣米使節の護衛が名目であった)。

安政3年(1856年)7月、アメリカ領事タウンゼント・ハリスが修好通商条約締結のため来日し、57年10月には江戸城へ登城。老中堀田正睦はこれを京都の朝廷に上奏したが勅許を得られず、13代将軍徳川家定将軍継嗣問題とも関係して南紀派、一橋派の抗争となる。安政5年(1858年)に大老に就任した井伊直弼は、日米修好通商条約を締結、紀州藩主徳川慶福を14代将軍にした(安政の大獄桜田門外の変参照)。同様の条約がイギリス、フランスオランダ、ロシアとも結ばれた(安政五カ国条約)。

安政6年(1859年)には箱館、横浜長崎(下田を閉鎖)が開港され、本格的な貿易が開始された。貿易相手国は主にイギリスであった。日本からは生糸などが輸出され、毛織物綿織物艦船武器などが輸入された。なお、続いて新潟神戸、の開港、江戸大坂などの開市も予定されていたが、攘夷運動の高まりにより、これらは大幅に延期された(両都両港開市開港延期問題文久遣欧使節)。

安政五カ国条約は「領事裁判権」、関税自主権の放棄(協定関税率制)、片務的最恵国待遇など、日本にとって不利な内容を含む不平等条約であった(但し、条約調印時にその不利が十分認識されていたわけではない)。金銀交換比率の内外差による金の流出(幕末の通貨問題)、外国商人が日本商品(特に絹)を高く購入したことにより生じた物価上昇などが、尊王攘夷運動の激化や一揆打ちこわし等を招いた。幕府は物価高騰と流通の混乱を防ぐため、60年に五品江戸廻送令を発して貿易の統制を図ろうとするが失敗する。神戸居留地 海岸通 1885年頃

条約港となった横浜神戸長崎などでは外国人居留地も設置された(但し、同時に外国人の国内旅行は制限されていた)。明治政府外交政策にとって、この是正は重要な課題のひとつとなるが、逆に一部の国粋主義者からは居留地の存在が外国の思想宗教から日本の伝統・文化を守る防壁としての役割を果たしているという見地からの存続論も登場して複雑な論争を招くことになった(内地雑居の開始は1899年)。

明治維新によって江戸幕府を倒した薩摩藩長州藩を中心とした明治政府も、明治2年(1869年)に政府として改めて開国を決定して、以後は不平等条約の撤廃(条約改正)が外交課題となっていくことになる。むしろ領事裁判権が問題になったのは明治になってからである(幕末には攘夷思想を持つ武士などによって、外国人が被害者になるケースが多かった)。領事裁判権は1899年に撤廃された。また国内産業の発達に伴って、国内商品と外国商品との競合が始まると、国内産業保護の観点からも関税自主権の獲得は重要課題となったが、その獲得は1911年のことであった。

日本は開国により帝国主義時代の欧米列強と国際関係を維持することとなる。
朝鮮大院君日朝修好条規の締結

李氏朝鮮1392年 - 1910年)末期の1832年イギリスが通商を求めに現れ、1840年頃から欧州船が近海に頻繁に出没するようになった。19世紀頃朝鮮では勢道政治(王の外戚による政治)が行われていた。1863年から李朝第26代高宗(在位1863年 - 1907年)の父で摂政大院君による政権時代、迫り来る帝国主義列強を排除する政策をとっていた。

1866年ジェネラル・シャーマン号事件(対アメリカ)、丙寅洋擾(対フランス)、1868年日本(明治政府)からの国書(明治政府の樹立宣言、王政復古の通告)の受け取り拒否、1871年辛未洋擾(対アメリカ)、など、海禁政策をとった(鎖国攘夷策)。


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