なお、門跡寺院の歴史の中で特殊な地位を占める存在に本願寺がある。浄土真宗の祖・親鸞(日野家出身)の直系子孫が継承した本願寺は歴史的経緯[注釈 1]から妙香院、後に青蓮院門跡の傘下に置かれていた(本願寺がたびたび行った朝廷への献金も青蓮院を経由して申し出がされていた)。ところが、戦国時代に入ると専修寺との勢力争いが深刻になる中、証如・顕如が2代続けて摂関家九条家の猶子となる一方、青蓮院門跡が天文年間末期に一時的に空席(弘治年間に後継に決定した尊朝法親王も若年で門跡としての職務が行い得ない)状態になったのを機に、青蓮院からの自立と専修寺への対抗を意図して摂家門跡の例に倣って門跡に加えて貰えるように朝廷への工作を行い、永禄2年(1559年)に本願寺を門跡に列する正親町天皇の勅許が出された。ところが、天正19年(1591年)に豊臣秀吉の命で本願寺が京都に移転し、2年後に顕如が亡くなった後に発生した後継問題を巡って東西本願寺に分裂すると、これまで本願寺が大坂にあったために黙認してきた京都の古くからの諸門跡寺院が本願寺の門跡としての資格に異論を唱えるようになる。更に禁中並公家諸法度の規定を厳密に解釈すると、本願寺は門跡の要件を満たしていない(日野家は名家格)とされる可能性もあった。江戸幕府は本願寺の門跡としての扱いを従前通りとしてその要件について判断を示すことはなかったが、後水尾天皇・霊元天皇は門跡としての特権を否認・制限する方針を示して東西本願寺と対立した。その結果、霊元院政下の元禄13年(1700年)頃になって、東西本願寺を諸門跡の最後尾、准門跡の格と位置づけられることになった[10]。
門跡寺院
法相宗
興福寺一乗院
興福寺大乗院
天台宗山門派
青蓮院(粟田御所)
魚山三千院(円融房、梶井門跡、梨本門跡)
南叡山妙法院
護法山安國院出雲寺毘沙門堂
曼殊院(竹の内門跡)
東叡山輪王寺(寛永寺)
日光山輪王寺(東叡山と兼ねる)
法住寺
滋賀院
本覚寺 - 廃寺
浄土寺 - 廃寺
妙香院 - 廃寺
天台宗寺門派
聖護院
照高院
法親王、または入道親王が住職として居住する13の寺院。十三門跡とも称する。実際には親王家に限って入寺するのは輪王寺・仁和寺・大覚寺の3門跡で、その他は摂家や足利将軍家からも入寺することができた。6代将軍義教が青蓮院から、15代将軍義昭が一乗院からそれぞれ還俗して将軍となったほか、足利義視(10代将軍義稙の父)が浄土寺から還俗して8代将軍義政の養子となっている。
東叡山輪王寺(寛永寺)
日光山輪王寺
南叡山妙法院
聖護院
照高院