門真市
[Wikipedia|▼Menu]
室町時代には室町幕府直轄地として「門真」荘という名が出てくる。
近世
京や大坂に近い事や立地の重要性により8割以上が江戸幕府の天領となった。代々譜代大名永井氏がこの地を支配した。この時代になると古川の氾濫も収まり豊かな水郷農村として発達し、低湿地を生き抜く知恵として段蔵やバッタリが生み出され、江戸時代後期には菜種木綿の栽培、蓮根栽培が活発化した。また江戸末期には、旧家・茨田家の茨田郡士(まったぐんじ)ほか多くの豪農が大塩平八郎の乱に加わった。
近代
蓮根栽培が石川県岡山県から優良な種類を導入し改良を加えた結果、最高期に達し、「河内レンコン」の名が全国に広まった。1910年(明治43年)の京阪電車の開通により、まちは変化し、工場誘致など産業都市としての発展にも力を入れるようになった。1933年(昭和8年)、松下電気器具製作所(現:パナソニック)が工場を建設し、以後は同社の企業城下町として発展した。
現代
1963年(昭和38年)、約6万人をもって市制を施行。1973年(昭和48年)1月29日に計量特定市に指定された。高度経済成長期大阪都市圏の拡大によって市の人口は急増、60年?65年には人口増加率178%を記録し、1970年代には約14万人にまで達した。しかしながらこの急速な人口増加は更なる都市化を促進する一方、農村農業を著しく衰退させ、かつて経験した事のない様々な都市問題を引き起こした。とりわけ近年は工場の海外移転による産業の空洞化に伴い、失業や犯罪の増加が進行した。今日においても、同市は大阪府内で最も貧しい都市のひとつであり、貧困財政犯罪といったさまざまな問題を抱えている。市はこれらの問題を改善する為に1971年(昭和46年)第一次総合計画を策定。以降、時代の変化に対応しながら計画を策定し、2010年(平成22年)からは第五次総合計画[2]を推進している。第五次総合計画はこれからの人口減少・成熟社会への移行等を背景に、将来都市像を「人・まち元気体感都市 門真」と定め、都市整備を軸に、教育の向上、地域力、防災・安全の強化、産業活性化等を公民競働によって目指す内容となっており、基盤となる財政の一層の健全化と共に取り組まれている[3]。なお計画期間は2010年(平成22年) から 2019年(平成31年)で、都市整備は古川橋駅?門真市駅周辺の北西部、大和田駅周辺の北東部、第二京阪道路沿道周辺の中部、門真南駅周辺の南部を中心に行われる。とりわけ北西部の「幸福町・垣内町・中町地区まちづくり」計画は統合中学校(門真市立門真はすはな中学校)・公園・広場・市立総合体育館の設置等、拠点地区整備や公共施設の再生を謳い新たな市の顔づくりとして位置づけられている。地域通貨「蓮」を発行していたが、2018年3月31日をもって発行を終了した。2010年代に入ると門真市を本拠地として発展を遂げてきたパナソニックが会社の一部を東京へ移し始めた[4]。2022年4月には、パナソニックホールディングスに社名を変更し持ち株会社制度へ移行。家電製品や電設資材事業を担う最大の事業部門となるパナソニック株式会社は本社機能を東京へ移した[5]三井不動産は、広大なパナソニックの工場跡地で商業施設・住宅(分譲マンション)・会員制倉庫型店舗(コストコ)・事業所(東和薬品)の4つの街区から構成される大規模複合街づくり型開発事業を展開[6]、企業城下町から大きく変貌を遂げることとなった。
年表

1996年平成8年) 大阪府立門真スポーツセンター(東和薬品RACTABドーム)が三ツ島に完成。

1997年(平成9年) 第52回国民体育大会夏季大会「なみはや国体」が開催された。

2004年(平成16年) 隣接する守口市と合併することが協議されるも合併にはいたらず、合併協議会は解散した。(後述)

2006年(平成18年) 春日若宮おん祭春日大社)の神饌として奉納する「河内蓮根奉納行列」が140年ぶりに復活した[7]

2010年(平成22年)11月1日  地域通貨「蓮」の発行を開始。

2012年(平成24年) 8月、市広報紙でイメージキャラクター「ガラスケ」発表。

2014年(平成26年)3月31日 市制施行50周年記念事業として『大相撲門真場所』を開催。

行政区画の変遷

1886年明治19年) 茨田郡門真一番上村・門真一番下村・門真二番村・門真三番村・門真四番村が合併して茨田郡門真村となる。

1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、茨田郡門真村・桑才村の区域をもって門真村が発足。大字門真に村役場を設置。

1896年(明治29年)4月1日 - 茨田郡門真村の所属郡が北河内郡に変更。

1939年昭和14年)4月1日 - 北河内郡門真村が町制施行して門真町となる。門真・桑才の2大字から、古川橋(もと門真一番上村)・一番(もと門真一番下村)・二番・三番・門真(もと門真四番村)・桑才の6大字に改編。

1956年(昭和31年)9月30日 - 北河内郡門真町が大和田村四宮村二島村を編入。

1963年(昭和38年)8月1日 - 北河内郡門真町が市制施行して門真市となる。大阪府下27番目の市。

守口市との合併協議

2005年(平成17年)度に、隣接する守口市と合併することが協議され、新名称は「守口門真市」と決定した(その他「松下市」の候補もあった)が、2004年9月にその合併をめぐる住民投票で、合併相手側の守口市の結果により事実上合併は消滅(反対派が投票の87%を占めた)、合併協議会は解散した(門真市の投票は投票率不足で不成立、開票されなかった)。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:100 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef