長門裕之
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これに対し、実名を書かれた池内淳子は記者会見を開き、「なぜ私が下着を洗わなければいけないんですか!」と怒りをあらわにして否定した。また、松田聖子を「社会人としての態度がなっていない」「歌は聴くに耐えない」と酷評。長門の事務所をやめて独立した紺野美沙子にいたっては「才女みたいに言われてるけど、パーティーなんかあるとすぐ男と消えちゃう。男のことになると、てんでだらしがないんだ」と断言。紺野は急遽記者会見を開き、激怒のあまり涙を流しながら「嫁入り前の娘がこんなことを書かれて、黙ってられません」と本を叩きつけた。そのほかにも、扇千景石原真理子などの有名女優についても赤裸々な表現で記述された。

集中砲火を浴びた長門(データハウス)側は初版を回収し、問題箇所を書き直した改訂版を出したうえ、池内に対しては新聞に謝罪広告を掲載した。長門は「ゴーストライターによる口述筆記だったため真意が伝わらなかった」などと弁明したが、理想的なおしどり夫婦のイメージが崩れたため、南田とともにすべての出演番組とCMの降板を余儀なくされるなど、この騒動が以後の芸能活動に大きなダメージを与えた。ワイドショーの多数の取材を受け、「こんな本はダメです!」と自著を机に叩き付ける場面が繰り返し放映された。

長年かけて復調し、おもにテレビドラマでの敵役や悪役を多くこなし、活躍した。

晩年は「(浮気や、前記の著書で迷惑をかけた人々へのお詫びなどを含め)苦労をかけた洋子への恩返し」として認知症になった南田の介護に取り組みつつ、「リタイアした洋子(=南田)の分まで」と発起し、精力的に活動を行った。介護の様子はテレビでも公開された[4]。小型カメラ2台などにより、生々しい介護の様子、日常生活が明らかとなり反響を呼んだ。視聴率は関東で22.9%、関西で20.6%、瞬間最高視聴率は27%と2008年のテレビ朝日放映番組1位の視聴率を獲得している。

また、長年確執があったとされた津川との共演も増やし、津川がマキノ雅彦名義で監督を務めた作品にも出演した。

2009年4月1日、南田が認知症悪化による意識混濁の状態となり、自宅から都内の病院に緊急搬送され入院。その後長門本人より、南田の病状について会見を行う。「意識は行ったり来たり。このまま植物状態になったらどうしよう、とも考えていた」と、長門は涙ながらに苦しい心境を語った[注釈 4]。5月に手記『待ってくれ、洋子』(主婦と生活社)を刊行した。しかし、10月21日に南田はクモ膜下出血により76歳で死去した。倒れた前日に続き、当日も明治座での舞台公演後に記者会見を開き、「これからは女房のない世界に踏み出していきます。思い出の中で洋子は生きてますから。これは永遠のものです」「4年間、僕が介護することで、僕の人生をよみがえらせてくれて、人生観を変えてくれました」と涙を浮かべながら記者陣に対してコメントを述べた。

亡くなる直前まで出演作品がコンスタントに放送されていたが、南田の死から1年7か月後の2011年5月21日午後5時20分、東京都文京区順天堂医院にて77歳で死去した[5]。同日夜に津川は病状について「肺炎をきっかけにした合併症であったが、前日は元気であった」と述べ、当日になって容体が急変したことを明かした。長門とはプライベートで60年来の旧友であった浅丘ルリ子も津川と駆けつけてマスコミの取材や応対に応じた。

長門の訃報を受けて、九年会メンバーで長年親交が深かった橘家圓蔵は「(玉置宏、坂上に続いて)どんどん仲間がいなくなっちゃう」と哀悼のコメントを発表した[6]。この他にも『どんど晴れ』で共演した比嘉愛未が自らのブログで長門を悼むコメントを記し、『池中玄太80キロ』で共演した西田敏行が「玄太は泣いています」と語るなど[7]、長門と縁のあった人々が哀悼のコメントを寄せた。長門・南田夫妻から実弟のように可愛がられて長年親交があった萩本欽一は、弔問に訪れた際「最高の先輩で、友達で、兄貴だった」と声を詰まらせながら話した[8]

葬儀・告別式は5月24日、東京都港区善福寺で津川が喪主を務めて営まれ、遺体は品川区桐ヶ谷斎場で荼毘に付された。23日の通夜では中井貴一笹野高史が、24日の葬儀・告別式では黒柳徹子奥田瑛二が弔辞を読んだ。法名は「極芸院釋浄晃」(ごくげいいんしゃくじょうこう)。

最後の映画出演作品は2010年10月9日公開の『青い青い空』。テレビドラマの遺作は亡くなる約2か月前の2011年3月26日、NHK放送の 土曜時代劇隠密八百八町』 最終話であった。
主な受賞歴

1959年(昭和34年)度ブルーリボン主演男優賞ホワイトブロンズ賞男優賞『にあんちゃん』

1963年(昭和38年)度毎日映画コンクール助演男優賞『古都』

南田洋子との関係

南田は、大映から日活に移籍して長門の同僚となった。当時、南田がすでに“大物女優”であったのに対して、長門はまだ“駆け出しの俳優”であった。南田は日活の専用車で自宅まで送り迎えをしてもらう身分であった。その頃、偶然、南田の自宅と長門の自宅が同じ方向であることが分かり、運良く長門が南田を送迎する車に一緒に乗せてもらうことになった。長門はこのチャンスを生かし、毎日車の中で南田に猛アタックをし続けた。その結果長門は、憧れていた格上の南田洋子の彼氏になることができた。

長門はプライドが高かったため、交際していた南田洋子より自分のほうが年収が低いということに、引け目を感じていた。そのため長門は、自分の年収が南田の年収より多くなるまでは南田と結婚しないと決め、仕事に励んだ。長門が南田と結婚したのは、自分の年収が南田の年収を上回った1961年のことであった。

南田との間に子供はいなかった。妻・南田が出産適齢期だった頃、夫婦で『ミュージックフェア』の司会を長年続け、“おしどり夫婦”と呼ばれていた。そのため長門は仕事を優先させ、南田との間に子供を作らなかった。そのことについて長門はテレビ番組のインタビューで「妻を妊娠させて番組を休ませるなんてことは考えられなかった」と述べている[出典無効]。
人物

同じ昭和9年(1934年)生まれの
石原裕次郎愛川欽也大橋巨泉財津一郎坂上二郎藤村俊二睦五朗森山周一郎らと「昭和九年会」を結成し、チャリティー事業などにも取り組んだ。


1967年4月に行われた東京都知事選挙では、妻の南田洋子、叔母の沢村貞子、叔父の加東大介とともに美濃部亮吉の推薦人に名を連ねた[9]


「人間プロダクション」のほか、長門は芸能プロダクションを経営したことがあり、その所属タレントだった紺野美沙子が独立した際には、紺野と激しく対立した。紺野はテレビ番組のインタビューで、長門から「芸能界にいられなくしてやるぞ」と言われたと告白している。逆に長門は、自身の書いた芸能界の暴露本『洋子へ』の中でも、紺野を「男ぐせの悪い尻軽女だ」と批判した。


長く芸能界に携わっていることもあり、邦画・洋画・テレビ番組などジャンルを問わず7,000枚を超えるLD(レーザーディスク)を所有していた。また、親友でもあった石原裕次郎ら芸能人の私的時間を写した8ミリフィルムも多数所有していた。


麻雀に深い造詣を持ち、自宅に雀荘部屋を持っているほど。色川武大も入り浸っていた。このことから長門邸は一時「芸能界の雀荘」の異名をとったこともあったが、長門は晩年には自宅をマンションに建て替えの上、マンション住まいに切り替えた。

出演
映画豚と軍艦』(1961年)秋津温泉』(1962年)

続清水港(1940年) - 芳太郎(特別出演) 役[注釈 5]

鳥人(1940年)[注釈 6]

無法松の一生(1943年) - 少年時代の吉岡敏雄 役[注釈 7]

女間者秘聞 赤穂浪士(1953年)- 大石主税役

次郎長三国志

次郎長三国志 第六部 旅がらす次郎長一家(1953年)

次郎長三国志 第七部 初祝い清水港(1954年)

次郎長三国志(1963年)

次郎長三国志 甲州路殴り込み(1965年)


濡れ髪権八(1954年)

此村大吉(1954年)

照る日くもる日(1954年)

お役者変化(1954年)

七つボタン(1955年)

恋天狗(1955年)

大岡政談 人肌蝙蝠(1955年)

未成年(1955年)

隣の嫁(1956年)

銀心中(1956年)

愛情(1956年)

ジャズ・オン・パレード 1956年 裏町のお転婆娘(1956年)


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