旧制松本中学校初代校長小林有也が残した遺訓が現在も伝えられている。一、諸子はあくまでも精神的に勉強せよ一、而して大に身體の強健を計れ一、決して現代の惡風潮に染み堕落するが如き事のあるべからず
校章
「」の字(旧字体)にトンボがとまる図である(外部ページ
1902年(明治35年)に作られた初代校歌は、卒業生の勝山勝司が作詞し、 米久保善雄が作曲した[6]。歌い出しは〈蜻蛉嶋山たゝなはる…〉と続いた[5]が、あまり普及することなく忘れられていた[6]。
1922年(大正11年)に[1]、当時の在校生で文芸部委員であった松原威雄が初代校歌をもとに5日間程度で作詞した。作曲は東京音楽学校(現在の東京藝術大学)助教授の岡野貞一が依頼されて行った[6]。
歌詞は第1番から第5番まであり、第1番の歌詞は以下のとおり[5]。同校ホームページに全歌詞が記載されている。
蒼溟(そうめい)遠き波の涯(はて)
黒潮たぎる絶東(ぜっとう)に
たてり大和の秋津洲(あきつしま)
光栄(はえ)の歴史は三千年
そのうるはしき名を負へる
蜻蛉男児(あきつをのこ)に栄えあれ
なお、松原は作詞の2年後に卒業して早稲田大学へ進学したが、翌1925年(大正14年)に肺炎で死去した。わずか21歳であった[6]。 歌詞の意味として、当時4年生だった松原は次のように考案したという(大正12年2月28日発行の『校友』67号末尾より)[5]。 「秋津州」とは古事記に記載された「大倭豊秋津島(おおやまととよあきつしま)」のことであり、日本の本州を意味する[5]。 さらに、この「豊秋津州」は「豊かなトンボの国」とも解釈できることから、「秋津洲」は日本および同校(松本中学校)の象徴であるトンボを同時に意味している[5]。 特別活動としてのクラブ活動は、「運動協議会」(運動部)と「学芸協議会」(文化部)とによって構成される「合同協議会」によって総括される。クラブ活動の団体には、予算や生徒会の支援の違う、愛好会・同好会・部活動の3段階が設けられている。
意味
1番では校歌の徽章の由来を説いてそれを讃美し、
2番では松中の特徴、否、生命とも言うべき自治を謳歌し、
3番では歴史・過去を歌い、
4番では現在を歌い、
5番には未来に対する抱負というようなものを歌った。
「秋津洲」の意味
行事
郷友会 - 出身中学校を共にする生徒がそれぞれ運営する団体。夜行軍・蜻蛉祭の灯篭作り・試胆会などの年中行事を行う。ただ近年は夜行軍や試胆会は行われていない。
深志清陵交歓会 - 1956年(昭和31年)より続く行事である。隣接通学区の諏訪清陵高校との交流の場であり、毎年6月に行われていたが、近年は行われていない。
部活動
運動協議会
空手道部
弓道部
剣道部
サッカー部
山岳部
柔道部
男女バスケットボール部
男女バレーボール部
男女硬式テニス部
水泳部
卓球部
ダブルダッチ部
ソフトテニス部
バドミントン部
野球部
陸上競技部
フットサル部
学芸協議会
学術系
化学会
心理学研究会
数学研究会
地学会
地歴会
博物会
物理研究会
哲学研究会
政治経済会
語学・文学系
文学部
推理SF小説研究会
独語研究会
ゴーロア会(フランス文学研究)
英語研究会
芸術系
アカシア会(美術)
音楽・演劇系
アコギ部
演劇部
音楽部
ギター部
吹奏楽部
軽音楽部
伝統芸能
華道部
香道部
茶道部
書道部
趣味
棋道部
Quiz研究会
写真研究会
鉄道研究会
特撮ヒーロー研究会
漫画研究会
落語研究会
ダンス部
その他
家庭生活愛好会
部活動の主な実績
野球部
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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