長野県市田村一家7人殺害事件
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現場の家は市田村大島山の集落の北西部に位置していた木造平屋建ての住宅で、間口7、奥行き3間半だった[1]。この家は山際に建っていた一軒家で、飯田市からは北方約8 km市田駅国鉄[注 2]飯田線)からは北西約4 km離れており、最寄りの県道から北西方向へ約1 km入った地点に位置していた[25]

事件当時の市田村には大都市圏から多くの者が闇米の買い出しに訪れていたが(後述[16]、後述のように現場には余分な米がなかったため、行商人や闇米のブローカーもほとんど立ち寄らない状態だった[26]。一方で大島山地区や隣接する吉田地区では、前年の1945年(昭和20年)秋から食糧が盗まれる事件が相次いでおり(後述)、被害者宅でも甘藷や洗い米が盗まれたことがあった[27]。このことから集落の人々が相次ぐ盗難に警戒を強めていた矢先に発生した事件だった[27]

事件現場周辺は戦後に入って「市田柿」の本格的な栽培が始まり、事件から68年後の2014年(平成26年)時点では市田柿の段々畑が広がっている[28]。現場となった家屋は事件後、無人となって荒れ果てていたが、被害者一家の近親者からの申し入れを受けて1954年(昭和29年)に解体され[29]、1961年5月の時効成立時点では畑になっていた[30]。その後、2014年時点ではA1一家の親戚の家が建っている[31]。また事件から58年後の2004年(平成16年)9月時点では、現場付近に7体の古びた地蔵がある[23]
被害者

殺害された被害者は、この家に住んでいた女性A1(当時38歳)と長男A2(同12歳)・次男A3(同9歳)・長女A4(同6歳)・三男A5(同3歳)の母子5人、そして同居人の女性B1(同25歳)とB1の娘である女児B2(同3歳)を含む計7人で[32]、女性と子供ばかりの世帯だった[33]斎藤充功の取材に応じた地元住民によれば、現場周辺の集落は住民の3分の1が、A1一家と同じ姓の親戚関係であるという[28]。しかしA1は内気な性格で近所付き合いも少なかったため、近隣住民たちも用事がなければA1宅に遊びに行くことはなかったという[26]。『信濃毎日新聞』によれば、A1は夫が病死して以降は親類との交流も絶えていたという[34]

A1は1934年(昭和9年)に結婚したが、事件の8か月前に夫が病死したため[注 3]、その後は一家の柱として農業に従事していたが、水田3反歩、畑2反5を耕作する農業収入があるだけで、生活は苦しかった[35]。またB1はA1の妹で、東京都荏原区小山(現:品川区小山)の病院で看護婦として働いていたころ[36]、務めていた病院の男性医師Xとの間に私生児としてB2をもうけたものの、1944年(昭和19年)1月にXと手を切り、姉A1のいる市田村へ身を寄せていた[6]。その後、市田村の住民である男性[注 4]の厚意でXから手切り金を受け取り、事件から4か月前の1946年1月20日から姉A1と同居するようになり[6]、農業の手伝いをしていた[35]。B1の元愛人およびB2の父親であるXについては、1944年春に出征したと報じられており[36]、またA1・B1姉妹の兄はXについて、B1と別れてからは故郷である青森県八戸市赤十字病院で勤務していたが、軍医として召集されてから消息不明であると述べていた[6]

A1方では玄米約110の収穫があったが、49斗5供出しており、また約15斗を年貢米として収めていたため、自家保有米は約46斗だった[26]。事件当時は物置に玄米42俵と雑穀少量があったが、一家は4斗の供出を控えていたことから、供出後は秋の収穫まで子供たちを含めた一家7人で1日12合しか米を食べられなかったことが窺える[26]。事件当時、A1宅は村の調査で「貧困母子家庭」に該当していたことから、民生委員が援護の手を差し伸べようか否か検討していた矢先に事件が発生した[35]。一方でB1・B2母子は配給米を受けており、また11俵を供出した後の同年4月末に集落が米の保有量を調べたところ、A1は6俵を保有していると申し出ていたことから、実際にはそれ以上の米を持っていると見られており、母子5人のみの家庭としては裕福であると思われていたため、物盗り目的で狙われたのではないかという報道もある[37]
事件発覚

5月10日18時ごろ、大島山集落の住民である女性・甲は隣組でお産があったことを受け、誕生祝の事付のためにA1宅を訪れた[1]。しかし何度名前を呼んでも返事がなく、周囲の畑でA1が農作業をしている姿も確認できなかったため、障子の割れ目から家の中を覗き込んでみた[1]。すると座敷の中に布団が敷いてあり、家人が寝ている様子だったが、大声で名を呼んでも目を覚まさないこと、そしてB1らしい人物の顔が赤黒く汚れていることを不審に思った甲は、近所の夫婦を呼んできて改めて3人でA1の名を呼んだが、やはり返事はなかった[1]。このため甲らはA1らが死亡していることに気づき、親戚や隣組の人々を呼び集めてA1宅に入ったところ、血の海になった部屋の中で、頭や顔を割られた一家7人の他殺体が発見された[1]

19時50分ごろに近隣住民の1人が市田村巡査駐在所[注 5]へ電話で事件発生を連絡し、これを受けた駐在所員は20時4分、飯田警察署の司法主任である警部補に事件発生の旨を連絡した上で、自転車で現場に急行した[38]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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