長谷川如是閑
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なかでも、ファシズム初期の段階で、他者に先駆けてファシズム批判を行ったことは注目される。

1929年(昭和4年)『我等』を『批判』と改題し、『日本ファシズム批判』を著すかたわら日ソ文化協会の会長となっている[5]1936年(昭和11年)の二・二六事件に際しては『老子』を著し、また『本居宣長集』を編集している[5]。さらに翌年の日独伊防共協定の折には岩波書店より『日本的性格』を刊行した[5]。このとき如是閑は還暦をすぎていた。やがて神奈川県鎌倉に移り、1939年4月には国民学術協会の発起人に中央公論社の嶋中雄作らと名を連ねた。これは民間アカデミーの試みとして注目される。
戦後の如是閑

1946年昭和21年)3月12日、最後の貴族院勅選議員となり日本国憲法の制定に携わり[8][9]交友倶楽部に属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した[3]。同年、帝国芸術院会員に選ばれた、1948年(昭和23年)に文化勲章を受章、1951年(昭和26年)に文化功労者1954年(昭和29年)に名誉都民[10]となった。

晩年は小田原市板橋に八旬荘を構えて住み、近所に住む松永安左エ門らと親交があった。

1969年(昭和44年)11月に死去した。享年94歳。
思想

如是閑の主著としては、『日本的性格』『現代国家批判』『現代社会批判』『真実はかく佯る』『搦め手から』『凡愚列伝』『倫敦! 倫敦?』『ある心の自叙伝』などがある。

東京下町の江戸っ子らしく、ドイツ流の観念論を「借り物思想」として排し、個々人の「生活事実」を思考の立脚点とした。本来は庶民の生活維持のために作り出された国家の諸制度が、歴史の過程で自己目的化するさまを鋭く批判した。英国流のリベラル国民主義的な言論活動を繰り広げ、職人および職人の世界を深く愛し、「日本および日本人」(日本の文化的伝統と国民性)の探究をライフワークとした。

松岡正剛は、如是閑について、自由主義ジャーナリストの代表、あるいはハーバート・スペンサー流の進歩主義の徒という扱いをされがちであるものの、彼には「日本主義もマルクス主義も国家思想も、合理思想も生活美学も、それからなかなか味のあるニヒリズムも、同時に深く根付いていた」と評しており、さらに「この同時性が見えないと如是閑はわからないし、その有機的単独犯としての編集思想も見えてはこない」としている[5]。そしてまた、如是閑が目指したものは「互いに反しあう制度と文化の融合」であり、生涯を通じて「つねに制度批判と文化研究との両輪」を「日本の解明」に向かって「漕ぎつづけた」思想家であり、その「頑固無類のジャーナリスティック・エディター」である如是閑の編集思想は、「日本という枠組」の考察であったろうと論じている[5]

なお、如是閑の思想は、友人のジャーナリスト丸山幹治の息子である政治学者の丸山眞男や仏文学者辰野隆等に大きな影響を与えている。
反ファシズム

上述のように、如是閑は大正デモクラシーの時代に、進歩・反権力の論陣を張り、『現代国家批判』『日本ファシズム批判』を著している。
「日本という枠組」の探究

如是閑は自著『日本的性格』において、日本人の多角的な性格を掲げ、生活の場面にこそ本能的なを希求する習性、対立や矛盾を解消するのではなくむしろ併存させようとする感性、いつ役立つか判然としないような修養をとても大切にして備える指向性、外来の文化を異化するよりも親和することを好む気質、また、自然の全体よりもその部分において変化を読み取る季節感といった諸特徴について、多面的な論考を加えている[5]
「職人の国」

如是閑は、日本を「職人の国」としての国柄を持っているとし、空理空論と離れた「実践」の気風を重視する文化風土のなかにあることを指摘した。すなわち、自らの「職分」に真剣に向き合って「佳き仕事」を誠実に実践しようとする人々に対しては、大抵の場合、惜しみない尊敬があたえられるのが日本である。如是閑は、このようなあり方が日本では多くの領域におよび、工芸芸能、商売や料理等に至るまで不変の姿勢であることに着目し、これを自身の言論活動につなげたのである[注釈 7]
格言など

「外交官と幽霊は微笑をもって敵を威嚇す」(『如是閑語』)

著作・新版

『長谷川如是閑選集』 栗田出版会(全7巻+補巻)、1969-70年

『長谷川如是閑集』 岩波書店(全8巻)、1989-90年

『如是閑文芸選集』
岩波書店(全4巻)、1990-91年

『近代日本ユウモア叢書2--長谷川如是閑集』 爽柿舎、1981年

元版『奇妙な精神病者--長谷川如是閑集』 現代ユウモア全集刊行会、1929年


『現代知性全集32 長谷川如是閑集』 日本書房、1960年

復刻『日本人の知性7 長谷川如是閑』 学術出版会、2010年


『ある心の自叙伝』 筑摩叢書、1968年/「人間の記録45」日本図書センター、1997年

近代日本思想大系15 長谷川如是閑集』 筑摩書房、1976年。宮地宏編

文庫判


『ある心の自叙伝』 講談社学術文庫、1984年 - 元版 朝日新聞社、1951年

『私の常識哲学』 講談社学術文庫、1987年 - 元版 慶友社、1955年

『長谷川如是閑評論集』 岩波文庫、1989年。飯田泰三山領健二

『倫敦! 倫敦?』 岩波文庫、1996年。小池滋解説

『ふたすじ道・馬 他三篇』 岩波文庫、2011年。他は「お猿の番人になるまで」「象やの粂さん」「叔母さん」

電子テキスト

長谷川如是閑「ラッセルのこと、自分のこと」
- ウェイバックマシン(2013年10月8日アーカイブ分)

長谷川如是閑、バートランド・ラッセルについて語る

『戦争論』理想社、1933年 - 国会図書館内のみで閲覧可能

主な研究・評伝文献

『長谷川如是閑 人物書誌大系6』
山領健二編、日外アソシエーツ、1984年

『長谷川如是閑 人・時代・思想と著作目録』中央大学出版部、1985年。巻末に総索引

田中浩『長谷川如是閑研究序説』未來社、1989年

増補版『田中浩集 第四巻 長谷川如是閑』未來社、2014年


板垣哲夫『長谷川如是閑の思想』吉川弘文館、2000年

古川江里子『大衆社会化と知識人--長谷川如是閑とその時代』芙蓉書房出版、2004年

アンドゥルー・E・バーシェイ『南原繁と長谷川如是閑--国家と知識人・丸山眞男の二人の師』宮本盛太郎監訳、ミネルヴァ書房、1995年

大宅壮一「長谷川如是閑論」- 『仮面と素顔─日本を動かす人々』東西文明社、1952年

大宅壮一『「無思想人」宣言』- 月刊「中央公論」昭和三十年(1955年)五月号。のち各「大宅壮一全集 第6巻」蒼洋社

脚注[脚注の使い方]
注釈^ 父・山本徳治郎は後に浅草に「花屋敷」を開業している(現在の「浅草花やしき」)。
^ 兄・笑月の著書『明治世相百話』は、中公文庫で新版刊行
^ 当時の大阪朝日は、進歩派の鳥居と保守派の西村天囚の対立が激化しており、親鳥居派の如是閑が西村批判を展開したため、社は一挙に鳥居体制に傾いたといわれている。
^ このときの記事を集成したものが『倫敦! 倫敦?』である。
^ 『我等』は大正から昭和初期の高級評論雑誌。朝日を退社した如是閑が1919年(大正8年)2月に大山や井口孝親らと我等社をたちあげ創刊した。丸山幹治伊豆富人大庭柯公らが参加している。


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