長谷川一夫
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同年11月12日、『源九郎義経』(渡辺邦男監督)の撮影中、撮影所から宿舎へ移動する最中[12]「松竹への恩義を忘れた不徳義漢」との建前で、撮影所出入りの不良少年・増田三郎と、金という男の二人に襲われて顔を斬りつけられ、左頬を貫通する深手を負い、撮影続行不能、映画は中止。「林長二郎暴漢に顔を斬らる!」との新聞見出しに京都中がてんやわんやとなり、この「二枚目映画スタアの受難」は日本全国を騒然とさせた。この事件の裏には松竹の意向があったと噂されている(東宝移籍のいきさつも参照)。

事件後、長谷川は怪我を機会に芸名を本名の長谷川一夫にしたいと東宝へ申し入れ、1938年(昭和13年)3月4日、東宝本社がこれを受理[13]。『藤十郎の恋』(山本嘉次郎監督)で銀幕復帰。独自に工夫したメイキャップで傷跡を消し、再起不能とまでいわれた逆境を跳ね返して堂々二枚目スタアに返り咲いた。また、『鶴八鶴次郎』などでは山田五十鈴とコンビを組み、ヒットを飛ばした。そのほか、李香蘭と共演した『白蘭の歌』(渡辺邦男監督)、『支那の夜』(伏水修監督)などといった現代劇に出演したが、時代劇ではこれという決定作は少なかった[14]

1942年(昭和17年)、演劇の実演を行うため、山田五十鈴らと新演伎座を結成。

1944年(昭和19年)、召集され、鳥取連隊に入隊。後に除隊され、1945年(昭和20年)の終戦時まで慰問公演を各地で行った。

1947年(昭和22年)、東宝が東宝争議で機能停止。長谷川は組合側にも経営者側にも立たず、大河内伝次郎藤田進黒川弥太郎高峰秀子入江たか子花井蘭子、山田五十鈴、原節子山根寿子とともに「十人の旗の会」を結成して日映演東宝支部を脱退、3月25日新東宝の設立に参加した。

1948年(昭和23年)、新演伎座を株式会社化し、自らその代表となる。映画製作も行い『小判鮫』『幽霊暁に死す』などを製作した。翌1949年(昭和24年)、新東宝の『銭形平次捕物控 平次八百八町』(佐伯清監督)に主演し、長谷川の十八番となる銭形平次を初めて演じた。
大映から映画界引退、その後1953年

1950年(昭和25年)、大映京都撮影所に重役として迎えられる。翌1951年(昭和26年)、『銭形平次』(森一生監督)が公開、以後『銭形平次捕物控』シリーズとして、大映で計17本の作品が作られ、同社を支える人気シリーズの一つとなった。

1953年(昭和28年)、イーストマン・カラー第1作である、衣笠監督の『地獄門』に主演。作品はカンヌ国際映画祭グランプリとアカデミー賞外国語映画賞を受賞した。翌1954年(昭和29年)、溝口健二監督の『近松物語』に主演。

1955年(昭和30年)7月、この年より東宝歌舞伎を主宰し、東京宝塚劇場を中心に新歌舞伎座御園座中日劇場で公演を行い、大成功させる。年2回ほど公演を行い、二代目中村扇雀(四代目坂田藤十郎)十七代目中村勘三郎六代目中村歌右衛門ら豪華なゲスト出演で知られ、華やかなレヴュー『春夏秋冬』などの公演で人気を得た。

1958年(昭和33年)、後援会「長谷川一夫の会」により『長谷川一夫 画譜 映画生活三十周年の記録』[15]が編まれた。

1963年(昭和38年)、『江戸無情』(西山正輝監督)を最後に、「後進に道を開く」と言い残し、ひとまず映画界を去った[14]。ここまで大映のトップスターであり続けた。

以後は、東宝歌舞伎など演劇を中心に活躍したが、テレビドラマにも多く出演し、1964年(昭和39年)には大河ドラマ赤穂浪士』に大石内蔵助役で主演、これが生涯の当たり役のひとつとなった。

1974年(昭和49年)、宝塚歌劇の『ベルサイユのばら』初演の演出を行い、大きな話題になった。

1983年(昭和58年)、東宝歌舞伎正月公演『半七捕物帳』が最後の舞台となり、同年秋に糖尿病の悪化で入院。翌1984年(昭和59年)には繁夫人と死別。その時から急速に衰え、後を追うようにして4月6日、頭蓋内膿瘍のため東京慈恵会医科大学附属病院で死去、享年76[2]。没後、国民栄誉賞を受賞した。墓は本法寺谷中霊園にある。
人物・エピソード『銭形平次』(1951年)

ミーハー」とは、林長二郎のファンのために作られた言葉である[16]。若い女性が大好きな「みつまめ」と、「はやし長二郎大好き人間」を揶揄してできたのが「ミーハー族」というキャッチフレーズだった[17]


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