ジョン・ノックス(1505年 - 1572年)はジュネーヴでカルヴァンに学んだ。1560年に彼の作成した長老派のスコットランド信条はスコットランド議会に採択された。スコットランド信条は当時としては特筆すべきことに、キリストが唯一の頭であると告白している[8] 。ノックスはスコットランド教会の確立のために戦い、ローマ・カトリックの女王メアリーと対決した。
スコットランド宗教改革の先駆者はノックスに影響を与えた。信仰義認を教え、ローマ教皇を反キリストと見なしたために、1528年に殉教したパトリック・ハミルトン、1546年に殉教したジョージ・ウィシャートらである。ウィシャートは、ノックスを回心に導いた直後に火あぶりにされた。1557年には、ローマ・カトリックをサタンの教会、その実践を偶像崇拝と呼んで、反対するスコットランドの貴族はエディンバラに集い、神の言葉を確立するための契約を結んだ[9]。この頃スコットランドではすでにプロテスタント信仰が根付いていたのである。
フランスでカトリックの教育を受けたスコットランド女王メアリーは、1561年にスコットランドへ帰国した。メアリーはスコットランド信仰告白を認めなかった。国王の権威とローマ教皇制を回復する狙いを持っていたのである。メアリーは1566年、その目的を達成しようとする直前に、個人的なスキャンダルで自滅した。こうして1567年、スコットランド議会で1560年の「スコットランド信仰告白」と「戒規の書(規律書)」が批准された。しかし、1570年に摂政のマリ伯爵ジェームズ・ステュアートが暗殺された事件は、スコットランド宗教改革の進展を遅らせることになった。殉教したカヴェナンターの少女カヴェナンター殉教の碑
スコットランドはその後もカトリック的な司教制と長老制が混在していた。1572年、幼王ジェームズ6世が成人するまで、司教と大司教の存続を認めると決議されたことに、ノックスは反対した。1574年に大陸から帰国したアンドリュー・メルヴィルは、ノックスの死後、指導者となる。1581年の国王の至上権を確立しようとする試みに、メルヴィルは立ち向かった。しかし、1584年の暗黒法で国王至上権と司教制が謳われ、長老教会は倒された。1592年の黄金法はこの暗黒法を廃棄した。
1637年に、チャールズ1世は、カトリック的かつアルミニウス主義的な「ロードの祈祷書」をスコットランドに押し付けた。憤慨したスコットランド人は立ち上がり、長老教会を守るための国民盟約に署名した。対して1639年、国王は武力制圧を試み、主教戦争が起こる。戦争はスコットランドの勝利に終わり、イングランドで1642年から清教徒革命(イングランド内戦)が勃発すると、スコットランドとイングランドは厳粛な同盟と契約を結び、国王軍と戦った。1638年グラスゴー大会の国民盟約(ナショナル・カベナント)と5年後の厳粛な同盟と契約により、彼らはカヴェナンター(契約派)と呼ばれた。