長渕剛
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

5月7日、気胸を公表[34][35]


音楽

使用ギターはレコーディングではギブソン製(J-45、J-200等)、ライブではタカミネ製(NTP-012、TDP-512、TDP-515-6等)のエレアコを主に使用する。使用ハーモニカ(ブルースハープ)はTOMBOの「メジャーボーイ」。現在一般的なハーモニカホルダーの形(テンホールズハーモニカ専用で、ハーモニカをセットする部分が狭くなっている)は彼が考案したものとのこと[36]

その時その時の人生をなすりつけたのが自身の音楽であるとしており、「30代での被害者意識も、その後の自責の念も、そのまま全部歌にしてきた」「つまり、己の弱さを歌にしてきたようなものだ。その弱さを歌に叩きつけ、そこから這い上がるためにさらに歌を書いていく。あとはお前ら聴く側が自由に受け止めてくれ!というのが長渕剛の音楽だ」という[37]
人物
思想・哲学

JAPAN」「家族」の歌詞には生まれ育った日本への愛や先行きへの憂い、日の丸への敬意が込められている。ライブでも日の丸を掲げたり、ファンが日の丸を振ったりする光景が見られている。これについて長渕は「父母や兄弟、仲間を思う気持ちが日本を思う気持ち。僕が一時期、日の丸にこだわったのはそれです」「僕が回帰するのは母の土手っ腹から流れた血ですね。それが日の丸の赤です」と話している[38]

2012年に開催されたアリーナツアー『Stay Alive』では「親知らず」の途中で国歌「君が代」を10,000人もの観客と共に歌った[39]

上述にもある通り日本および自衛隊や特攻隊の若者が強いられた矛盾に寄り添ったうえで反戦や平和を訴えている[40]
経歴.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この節は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方
出典検索?: "長渕剛" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2021年5月)

鹿児島県警の警察官の父親(長渕邦治)と母親(マス子)の次男として、警察官舎長屋が当時あった日置郡伊集院町徳重(現在の日置市伊集院町徳重)で生を受け、長屋から徒歩の母に抱っこされ徳重神社へお詣りした。兄(邦人)がいたが、生後100日程度の乳児期に病死しており、5歳年上の姉との2人姉弟だった。子供のころのあだ名は「レオン」。出生後まもなくインフルエンザで生死の境をさまよっていた。その後、日置郡上伊集院村大字直木(現在は同郡松元町を経て鹿児島市直木町)で暮らし、茶畑で遊んだり虫取りをしたりと自然豊かな環境で3歳まで育った。幼い頃は体が非常に弱く、よく喘息発作を起こし、病院通いが欠かせなかった。音楽が楽しみで、同郷の吉田拓郎加川良友部正人遠藤賢司、高田渡等のフォークソングを好んで聴いていた。中学3年の正月に3600円のガット・ギターを購入し、鉄弦を張り思いのままに好みの楽曲をコピーしていた。鹿児島南高校の情報処理科の2期生として入学し、伊敷町から自転車で1時間近くかけて通っていた。最初のうちは成績も良かったが、徐々に落ちていき、卒業するころには、下から数えた方が早い成績まで落ちたという。上京後、初めて住んだ場所は、世田谷区の新代田のアパートである(このことは、自身も後に楽曲の中で歌詞にしている)。

1981年8月、石野真子と結婚。結婚式はハワイの教会で、仲人は吉田拓郎と浅田美代子夫妻(当時)だった。1978年当時、福岡県北九州市のライブハウスに飛び入りで現れた際、ステージのMCで、「俺は将来、石野真子を嫁さんにする」と発言していたが、様々な見解の相違を表面化させ、長渕のDVや長渕の母との確執などが理由[41]1983年5月に離婚[5]

1987年8月29日に『親子ゲーム』(1986年)、『男はつらいよ 幸福の青い鳥』(1987年)で共演した志穂美悦子と再婚[42]。『親子ゲーム』の撮影中に志穂美が左手小指の付け根を骨折し、病院に向かう志穂美に長渕が付き添ったことが馴れ初めだった[42]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:252 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef