長慶天皇
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譲位後2年程は院政を敷いていた証拠があり、元中2年/至徳2年(1385年)9月「太上天皇寛成」の名で高野山丹生社宸筆願文を納めたが[注釈 7]、翌元中3年/至徳3年(1386年)4月に二見越後守宛に下した院宣を最後に史料の上から姿を消している。その後は落飾して金剛理(覚理とも)と号し、禅宗に帰依した模様である。

元中9年/明徳3年(1392年)閏10月、南北朝合一が成った際にも後亀山天皇に同行して京都に入った形跡は見られない。『大乗院日記目録』によると、応永元年(1394年8月1日崩御。宝算52。晩年の地については、吉野に留まったとする説の他、紀伊玉川里(和歌山県九度山町)とする説、和泉大雄寺塔頭の長慶院(大阪府高石市)とする説(後述)、あるいは京都に還幸したとみて、天竜寺塔頭の慶寿院(京都市右京区)とする説など諸説がある。

若年から和歌に優れ、天授元年(1375年)の『五百番歌合』、同2年(1376年)の『千首和歌』(322首が現存)がある他、『新葉和歌集』に「御製」として53首が入集している。その歌風は平明で、大覚寺統伝統の二条派に属する。著作には先述の『仙源抄』がある他、『孟子集註』・『雲州往来』・『台記』などの研究も行った。

なお、天皇は譲位後に南朝勢の協力を求めて、各地を潜幸したという伝説があり、全国に御陵伝説地が点在する。南部煎餅の祖とする伝承もある。
在位・非在位をめぐる議論

天皇の在位・非在位の議論は近世初期からあり、林春斎(『日本王代一覧』他)を始め[注釈 8]榊原忠次(『新葉和歌集作者部類』)や徳川光圀(『大日本史』)は在位説を、新井白石(『読史余論』)や前田綱紀塙保己一(『花咲松』)は非在位説を唱えた[注釈 9]。議論は明治に持ち越され、正統史学者はおよそ在位説であったが、黒川真頼菅政友谷森善臣らは非在位説を論じた。大正に入って、八代国治の発表した一連の研究が有力な在位論として評価され(後に『長慶天皇御即位の研究』として刊行)、また同時期に武田祐吉によって発見された『耕雲千首(英語版)』古写本の奥書から「仙洞並当今」、すなわち上皇と天皇が元中6年(1389年)に並存していたことが明らかとなり、後村上天皇崩後のこの時期に仙洞の資格があるのは長慶上皇しか存在しないとして八代の見解を補強した。これら新出史料を駆使した研究成果は従来の在位説をより確定的なものとし、その後の宮内省による調査を経て、大正15年(1926年10月21日皇統加列の詔書が発布され、長慶天皇は正式に第98代天皇として公認された。
長慶天皇登列の詔書.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}朕?󠄂惟フニ長慶天皇在位ノ事蹟ハ史󠄁乘ノ記述?󠄁審ナラサルモノアリ今ヤ在廷󠄁ノ臣僚ニ命シ深究精?󠄀覈セシメ其ノ事蹟明?瞭ナルニ至レリ乃チ大統中同天皇ヲ後村上天皇ノ次?󠄁ニ列ス茲ニ之ヲ宣示ス

御名 御璽

攝政名
大正十五年十月?二十一日

宮?大臣 一木喜コカ
?閣總理大臣 若槻禮次?󠄁カ

系譜

後村上天皇の第一皇子。母は二条師基猶子嘉喜門院(三位局)。

中宮藤原氏 - 西園寺公重

皇子:行悟(1377年 - 1406年) - 円満院門跡


女御:某氏教子 - 父不詳

皇子:世泰親王(? - ?) - 南朝系図に後亀山天皇皇子とするのは誤り


生母不詳

皇子:海門承朝(憲明、1374年頃 - 1443年) - 南禅寺住持

皇子:尊聖(佐山宮、1376年 - 1432年) - 勧修寺長吏。猶子説あり[2]

皇子:某(玉川宮、? - ?) - 玉川宮


系図

持明院統
北朝〕                【大覚寺統
南朝〕 

                            

                    96 後醍醐天皇    

                             
     
光厳天皇 北1 光明天皇 北2            97 後村上天皇    

                              
                    
崇光天皇 北3     後光厳天皇 北4    98 長慶天皇 99 後亀山天皇 惟成親王
護聖院宮家

                          

(伏見宮)栄仁親王
(初代伏見宮)     後円融天皇 北5    (不詳)
玉川宮家〕 小倉宮恒敦
小倉宮家

                         

(伏見宮)貞成親王
(後崇光院)     100 後小松天皇 北6            

                          
     
102 後花園天皇 貞常親王
伏見宮家〕 101 称光天皇            

                        



在位中の元号

正平1368年3月) - 1370年7月24日

建徳 1370年7月24日 - 1372年4月

文中 1372年4月 - 1375年5月27日

天授 1375年5月27日 - 1381年2月10日

弘和 1381年2月10日 - (1383年冬)

陵・霊廟・遺物嵯峨東陵


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