長州藩
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藩主の毛利家は、鎌倉幕府の重臣であった大江広元の四男・毛利季光を祖とする一族である[2]鎌倉時代越後国佐橋荘を領した毛利経光(季光の子)が、四男の時親安芸国吉田庄を分与し分家を立てた[注釈 1]

時親の子・毛利貞親、孫の毛利親衡は越後に留まり安芸の所領は間接統治という形をとったが[注釈 2]南北朝時代に時親の曽孫・毛利元春は安芸に下向し、吉田郡山城にて領地を直接統治[注釈 3]するようになる。しかし戦国時代には毛利元就が出ると、一代にして国人領主から戦国大名に脱皮し大内氏の所領の大部分と尼子氏の所領を併せ、最盛期には中国路10か国と九州北部の一部を領国に置く最大級の大名に成長した。

元就の孫・毛利輝元隆元の子)は豊臣秀吉に仕え、天正19年(1591年3月、安芸・周防・長門・備中半国・備後伯耆半国・出雲石見隠岐の112万石(石見銀山50万石相当、また以前の検地では厳密にこれを行っていなかったことを考慮すると実高は200万石超)を安堵された。また、本拠を吉田郡山城から、より地の利の良い広島城に移す。

輝元は秀吉の晩年、五大老の一人に推され、関ヶ原の戦いでは石田三成方に与し、西軍の総大将として大坂城西の丸に入った。だが、主家を裏切り東軍に密かに内通していた従弟の吉川広家により、徳川家康に対して敵意がないことを確認、毛利家の所領は安泰との約束を家康の側近から得ていた。

ところが、西軍の敗北後、家康は広家の弁解とは異なり、輝元が西軍に積極的に関与していた書状を大坂城で押収したことを根拠に、一転して輝元の戦争責任を問いだした。これにより、所領安堵の約束を反故にして毛利家を減封処分とし、輝元は隠居の身となり、輝元の嫡男・毛利秀就に周防・長門2か国29万8480石2斗3合[注釈 4]を与えることとした(防長減封)。
江戸時代初期

実質上の初代藩主は輝元であるが、形式上は秀就である。秀就は幼少のため、当初は輝元の従弟の毛利秀元と重臣の福原広俊益田元祥らが藩政を取り仕切った。

新しい居城地として、防府・山口・萩の3か所を候補地として幕府に伺いを出したところ、これまた防府・山口は分限にあらずと萩に築城することを幕府から命じられた。萩は防府や山口と異なり、三方を山に囲まれ日本海に面し、隣藩の津和野城の出丸の遺構が横たわる鄙びた土地であった。

慶長12年(1607年)、領国を4分の1に減封された毛利氏は新たな検地に着手し、慶長15年(1610年)に53万を打ち出した[2]。しかし、思いもよらぬ50万石を超える高石高に驚いた幕閣(取次役は本多正信)は、敗軍たる西軍の総大将であった毛利家は50万石の分限ではないこと(特に東軍に功績のあった隣国の広島藩主・福島正則49万8000石とのつりあい)、毛利家にとっても高石高は高普請役負担を命じられる因となること、慶長10年御前帳の石高からの急増は理に合わないことを理由に、石高の7割である36万9411石3斗1升5合を表高として公認した[2][4]

以降この表高は明治維新まで変わることはなかったが[5]、その後の新田開発などにより、実高(裏高)は1625年寛永2年)の第二回検地では本藩と支藩を合わせて66万石[2][4]1686年(貞享3年)の本藩領だけの検地で63万石[2]1761年(宝暦11年)には本藩領検地だけで約71万石を検出[2]。この後には検地は実施されていないが、幕末期の内検高は100万石以上だったと推定されている[2]
江戸時代中期から後期毛利重就

江戸時代中期には、第7代藩主・毛利重就が、宝暦改革と呼ばれる藩債処理や新田開発などの経済政策を行う。

第11代藩主・毛利斉元の時代の1825年(文政8年)には長州藩で戸籍制度が創設された。この制度が明治政府に受け継がれ、京都に始まり、やがて全国民を対象とした戸籍制度が創設された[6]。また文政12年(1829年)には産物会所を設置し、村役人に対して特権を与えて流通統制を行う。しかし、藩専売制の強化が農民の反対を招き、天保3年(1831年)には、領内で大規模な一揆が発生[2][7]。このため藩政改革を行い、この改革が明治維新遂行の道を歩むきっかけとなった[2]

天保8年(1836年4月27日、後に「そうせい侯」と呼ばれた毛利慶親が第13代藩主に就くと、村田清風を登用した天保の改革を行う。


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