長嶋茂雄
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^ 戦前にはフィリピン人のアデラーノ・リベラが1年間ではあるが在籍した。同じく戦前に在籍したヴィクトル・スタルヒンはロシア系であるが日本の学校への在学歴がある。「学歴まで含めて外国で育った非日系の外国人選手」としてはリベラに次いで2人目となるが、戦後に限定すれば初めてとなる。
^ 現役引退前後の頃にも同様の発言をしたことがあり、「野球というスポーツは、人生そのものだと僕は思います。失意と得意、成功と失敗が常に背中合わせになっています。勝者が笑う陰には、常に敗者がいます。栄光の陰に、数知れぬ挫折があります」と語っている(沢木耕太郎著「三人の三塁手」)。
^ 後に長嶋は阿川との対談で、「(意識は)なかった。もう(状態は)上中下の下で、一番悪かったですからね。その下は死ですから」と語っている。阿川、2011
^ 長嶋は一茂の判断について「一番悪い状態の時でしたからね」と理解を示しながら、誰が何と言ってもアテネへ行くつもりがダメになったことへのショックと孤独を語っている。阿川、2011
^ 同プロジェクトは2010年まで毎年1月に開催されていた。
^ この内容が2011年に単行本となっている。阿川、2011
^ 庵原英夫『正しい技術 勝つ作戦のコツ 野球ルール』(有紀書房、1987年) p64-65。公認野球規則の6・02a(打者の義務)では打者は自分の打順がきたら速やかにバッタースボックスに入って打撃姿勢をとらなければならないとされているが、「バットを持って」とは明記されていない。このときの球審は長嶋がバットを持っていなくても素手で構えたため打撃姿勢をとったものとみなし、四球の判定を下しているが、バットを持っていなければ投手の投球を打ち返すことは不可能であり、庵原は長嶋のこの行為に対して、球審によっては打撃姿勢をとっていないとみなす可能性があることを同書内で指摘している。なお打者が打撃姿勢をとろうとしない場合、球審は投手に投球を命じ、どのような投球であってもストライクを宣告することができる。このため、もし球審が打撃姿勢をとっていないとみなした場合、素手で構えて以降の投球は全てストライクとなり、ストライクを3回宣告されるまでに打者が打撃姿勢を取らなかった時には、アウトを宣告される。
^ このことは広岡達朗堀内恒夫が証言している。
^ ビートたけしは長嶋の守備について、「長嶋が登場するまでは、巨人の守備になるとみんな便所にいってたんだよ。つまり守備は見る必要がないって思ってたんだ。でも長嶋が登場してからは、あの守備が見たくてさ。便所すら行けなくなっちゃったよ(笑)」と述べている。
^ 引用中、( )内は記者による描写。当時は前年の安保闘争の記憶が生々しい時期で(長嶋もインタビューで「昨年の安保のときから(引用者注:政治面に)興味もつようになったんです」と発言している)政権交代をうかがわせる雰囲気があった。
^ 玉木正之の『プロ野球大事典』(1990年、新潮文庫)では、東急フライヤーズ一言多十が映画『七人の侍』を「七人のマチ」と言ったエピソードから、多くのコラムニストが他のプロ野球選手にこれを付会させたエピソードを「創作」し、その「被害」が最も多いのは長嶋であろうと記されている(P470)。同書には1979年のあるエッセイで、長嶋が同じ黒澤明監督の映画『野良犬』を「ノヨシケン」と呼んだと書かれている例が紹介されている(P441)。
^ ただし、板東のこの行為は巨人ファンから批判を受け、加えて当日の放送ではこれ以外にも複数の問題を起こしていたこともあり、板東は同年中にCBCの解説者契約を打ち切られた。本人の項も参照。
^ 長嶋の編著「野球は格闘技だ」にも同内容のコメントを寄せている。なお、この話は石原を通じて役者内でも広がったとされ、勝新太郎も同著内でその話に触れたコメントを寄せている。
^ 長嶋は不振に陥った入団2年目の山本一義を自宅に呼び寄せ、自らの試合前ルーティーンを山本に見せることで激励をしたとされる。その時の様子を山本は「朝十時に家に着くと、長嶋さんは散歩から帰って柔軟体操をしているところだった。長嶋さんは私を一瞥すると、『そこに座ってろ』という。<中略>ノートを出してきて『今日の先発は大石かな、大羽かな』と一人ごちて、この二人と前回対戦した時の配球を調べている。『1球目がカーブで、2球目がシュートか』とノートを読んで予備知識を入れたかと思えば、スクッと立ち上がって球場に行く準備を始めたのであった。<中略>正直なところ、"動物的勘"や"天性の資質"でプレーすると言われていた長嶋さんは、毎日遊び惚けて野球をやっているのかと思っていた。とんでもない間違いだった。あの頂点に立っている長嶋さんは、毎日試合前に必要な準備をして臨んでいるからこそ、あの光り輝くプレーができているんだということに気づいた時、ハッとさせられ、深く反省させられた」と回想している(「わが人生、わが野球道(Vol.15)」著・山本一義 月刊The Carp 1992年5月号(No.54))。

出典^ プロ野球オーナーズリーグ長嶋茂雄2012第2弾:第10弾レジェンド)
^ 「株式会社 読売巨人軍 会社概要」『読売巨人軍公式サイト』。2021年1月23日閲覧。
^ a b c 「長嶋茂雄氏に文化勲章 ノーベル真鍋氏も 功労者は加山雄三氏ら」『産経ニュース』産経デジタル、2021年10月26日。2021年10月26日閲覧。
^ a b c 近藤唯之『プロ野球 新・監督列伝』PHP、1999年。
^ a b 「「長嶋」一茂へ 異例要求で父茂雄氏の表記に/復刻」日刊スポーツ、1991年12月11日。2022年2月22日閲覧。
^ a b 「プロ野球デキゴトロジー/10月14日 長嶋茂雄、引退。涙の後楽園【1974年10月14日】」週刊ベースボールONLINE、2017年10月14日。2021年8月13日閲覧。
^ 森岡浩「長嶋茂雄」『プロ野球人名事典 1999』日外アソシエーツ。
^ a b c d e f g h 「 ⇒おとなの安心倶楽部|第13回 災害の年に向き合う日本の心は」セコム、2011年10月3日。
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