長崎市への原子爆弾投下
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長崎市の人口数は1940年の調査で252,630人で全国11位、九州では幕末以降も長きにわたり最多だったが、八幡市[注釈 23]福岡市[注釈 24]に追い抜かれた。
被爆の実相の伝承

国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館と長崎大学核兵器廃絶研究センター(RECNA)[31]は、2021年から取り組んでいる《「被爆の実相の伝承」のオンライン化・デジタル化事業》の一環として、2023年3月7日に「被爆前の日常アーカイブ」を公開した[32]

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原爆投下直前

屋久島上空から小倉へ原爆投下に向かうB-29により、長崎には朝から空襲警戒警報が出ており、一旦は避難した市民も多かったが、午前10時過ぎには解除されたため、大半の労働者・徴用工・女子挺身隊は、軍需工場の作業に戻ったとされている。

長崎原爆戦災誌によると、広島の新型爆弾の惨状を聞いた永野若松県知事は8日夜、警察の部課長や署長を官舎に集め、同じ爆弾が長崎に落とされる恐れもあるとして、明日にでも会議を開いて対策を検討しようと指示を出した。

そして9日、避難命令が一番いいと考えた永野知事は会議を招集したものの、朝は空襲警報が出ており、警察幹部は長崎市立山の県防空本部(立山防空壕)を動けなかったため、知事が自ら同本部へ駆けつけ、会議を始めた途端に爆弾が投下され、壕内の電気が消え真っ暗になったとされている。また同盟通信社長崎支局には、当日午前11時に県の防空課長から、新型爆弾に対する戦訓を広く発表したいとの招集があったとされる。

また前述の長崎上空での無線傍受により、原爆投下直前の10時58分から「長崎市民は全員退避せよ」との臨時ニュースが佐賀、熊本、福岡3県のラジオで流れたことも分かっている[注釈 25]。その臨時ニュースは、「総退避」の叫び声が流れる中、原爆の投下と同時に無変調となった。
人体への影響詳細は「被爆者」を参照『The General Effects of the Atomic Bomb on Hiroshima and Nagasaki』。日本映画社撮影映像を米軍が編集したもの。

原爆は浦上地区の酸素魚雷の工場の直上で爆発し、付近一帯を壊滅させた。爆心地である浦上地区は長崎市中心部から3キロメートルと離れていること、金比羅山など多くの山による遮蔽があり、遮蔽の利かなかった湾岸地域を除いて被害は軽微であり、広島市の場合と異なり県や市の行政機能は全滅を免れている。浦上地区の被爆の惨状は広島市と同じく悲惨な物であった。浦上教会(浦上天主堂)では原爆投下時に告解ゆるしの秘跡)を行っていたが、司祭の西田三郎・玉屋房吉を初め、数十名の信者は爆発に伴う熱線あるいは崩れてきた瓦礫の下敷きになり全員が即死、長崎医科大学でも大勢の入院・通院患者や職員・学生が犠牲となった[33]

大村海軍病院に収容された負傷者は、誰も履物を履いておらず、着衣がボロボロ[注釈 26]という凄惨な状態で、「地獄か修羅場の絵巻物」という有様だった[34]。大村海軍病院は9日の内に758人の負傷者を収容したが、翌10日の朝までに約100人が死亡したほか、10数名が重症を負っているにもかかわらず親類の安否を気遣い退院しようとするため、院長の判断で大村駅までトラックで送った[35]

長崎市内には捕虜を収容する施設もあり、連合軍兵士(主に英軍蘭軍兵士)の死傷者も大勢出たと言われている[注釈 27]

全身に大火傷を負い8月10日に収容された14歳の少女[注釈 28]大村海軍病院にて、同日撮影)

爆心地から約1kmの岩川町で救援を待つ被爆者(1945年8月10日)

浦上駅のプラットホームで死亡した親子(1945年8月10日)

二重被爆者

特異例として広島で被爆後親戚を頼って長崎へ疎開していた人物が再び長崎で被爆・または出張などで広島を訪れていた人物が被爆し、実家のある長崎で再び被爆したという事例(二重被爆)も確認されている[注釈 29][注釈 30]

広島原爆の惨状を体験し、長崎に戻って、長崎原爆の犠牲となった長崎医科大学学長、角尾晋のような人もいる。

1955年、アメリカのニューヨーク・タイムズの記者だった(1954年から61年と64年から68年まで2度、ニューヨーク・タイムズ東京支局長)ロバート・トランブルは二重被爆について関心を持ち、長崎の原爆傷害調査委員会(ABCC)の資料などを調査し、18人の生存を確認した。そして、取材に応じた9人の証言を1957年アメリカで出版した。この中に、山口彊西岡竹次郎などが含まれている。この翻訳本が2010年日本で出版された。この時点で165人の二重被爆者がいることがわかった[39]

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被爆後の救援.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}(左)逃げる被爆者たち(山端庸介撮影)


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