長崎市への原子爆弾投下
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長崎市への原子爆弾投下(ながさきしへのげんしばくだんとうか)は、第二次世界大戦太平洋戦争)末期の1945年(昭和20年)8月9日(木曜日)に、連合国アメリカ合衆国枢軸国日本長崎に対して原子爆弾ファットマン[注釈 2]」(以下原爆と記す)を投下し[注釈 3]、午前11時02分に炸裂[1]した出来事である。この原子爆弾が人類史上において2回目かつ実戦で使用された、2024年時点では最後の核兵器である。

原爆の投下により、当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が死亡、建物は約36%が全焼または全半壊した[2][注釈 4]

長崎県、長崎市を指す「長崎」が「ナガサキ」と片仮名表記される場合は、長崎市への原子爆弾投下に関する言及である場合が多い。「日本への原子爆弾投下」および「広島市への原子爆弾投下」も参照
原爆投下時

8月6日広島原爆投下作戦において観測機を務めたB-29グレート・アーティスト」を操縦したチャールズ・スウィーニー少佐は、テニアン島へ帰還した夜、部隊の司令官であり、広島へ原爆を投下したB-29「エノラ・ゲイ」の機長であったポール・ティベッツ大佐から、再び原爆投下作戦が行われるためにその指揮を執ること、目標は第一目標が小倉市(現・北九州市)、第二目標が長崎市であることを告げられた。

その時に指示された戦術は、1機の気象観測機が先行し目標都市の気象状況を確認し、その後、護衛機無しで3機のB-29が目標都市上空に侵入するというものであった。この戦術は、広島市への原爆投下の際と同じものであり、日本軍はこれに気付いて何がなんでも阻止するだろうとスウィーニーは懸念を抱いた[注釈 5]

出撃機は合計6機であった[注釈 6]

スウィーニーの搭乗機は通常はグレート・アーティストであったが、この機体には広島原爆投下作戦の際に観測用機材が搭載されていた。これをわざわざ降ろして別の機体に搭載し直すという手間を省くため、ボック大尉の搭乗機と交換する形で、爆弾投下機は「ボックスカー」となった[注釈 7]

ボックスカーには、スウィーニーをはじめとする乗務員10名の他、レーダーモニター要員のジェイク・ビーザー中尉、原爆を担当するフレデリック・アッシュワース海軍中佐、フィリップ・バーンズ中尉の3名が搭乗した[注釈 8]

先行していたエノラ・ゲイからは小倉市は朝靄がかかっているがすぐに快晴が期待できる、ラッギン・ドラゴンからは長崎市は朝靄がかかっており曇っているが、雲量は10分の2であるとの報告があった。この2機に関しては9日朝に国東半島付近を飛行中に目撃され、西部軍管区司令部は7時50分に空襲警報を発令した[4]

前回の広島市への原爆投下では、3機の合流地点は、硫黄島上空であった。しかし、今回は、台風が硫黄島付近で勢力を増しつつあり、そのため合流地点を屋久島へ変更していた[5]。3機は屋久島まで個々に飛行を行った。1945年8月6日と9日の原爆投下の飛行ルート

午前7時45分に屋久島上空の合流地点に達し、計測機のグレート・アーティストとは会合できた[注釈 9]が、島の西側を旋回していた写真撮影機のビッグ・スティンクとは会合できなかった[4]。それでも高度12,000メートルの地点でエノラ・ゲイ、ラッギン・ドラゴンからの気象報告を受信したスウィーニーは2機編隊で作戦を続行することにした[4][注釈 10]。この気象報告は埼玉県大和田通信所で傍受されており、直ちに西部軍管区に転送された[4]

午前9時40分、大分県姫島方面から小倉市の投下目標上空へ爆撃航程を開始し、9時44分投下目標である小倉陸軍造兵廠上空へ到達。爆撃手カーミット・ビーハン陸軍大尉がノルデン爆撃照準器から目標を確認し、それを受けてスウィーニーが投下用意を令して爆弾倉を開け、スウィーニー以下全搭乗員が保護メガネを着用して爆発に備えた[6]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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