長崎市への原子爆弾投下
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^ アメリカ軍の記録による投下時刻は午前10時58分。
^ 原爆死没者名簿の人数は2009年8月9日現在で14万9266人。
^ 当時の長崎県知事であった永野若松の証言[3]によると、8月8日夜の警察との会議では、長崎はほとんど無傷に近いので、広島と同じ爆弾が長崎にも落とされるに違いないとの結論が出ていた。翌9日の午前9時前には気象観測機ラッギン・ドラゴンと思われる爆撃機に対する空襲警報も発令された後、爆弾投下直前の10時53分には2機が視認されており、スウィーニーの懸念のように、広島爆撃と同様の状況であることは日本側も察知していた。それにもかかわらず、有効な迎撃手段はとれなかったということになる。
^ 気象観測機は小倉へはB-29エノラ・ゲイ(ジョージ・マクォート George W. Marquardt 大尉)、長崎へはB-29ラッギン・ドラゴン(チャーリー・マクナイト Charles F. McKnight 大尉)が飛び、計測機としてB-29グレート・アーティストフレデリック・ボック Frederick C. Bock 大尉)、写真撮影機としてB-29ビッグ・スティンク(ジェームス・ホプキンズ James I. Hopkins 中佐)、予備機としてB-29フルハウス(ラルフ・テイラー Ralph R. Taylor 少佐)、爆弾投下機はB-29ボックスカーであった。
^ これらの機体の愛称は出撃時には機体に描かれていなかったため、唯一人これらの原爆投下作戦の取材許可を得ていた「ニューヨーク・タイムズ」の記者ウィリアム・ローレンスはこの交換のことを知らず、後の記事で「爆弾投下機はスウィーニー少佐の搭乗したグレートアーティスト号」としてしまい、これが原因で戦後しばらくの間は爆弾投下機の名前が間違って伝わることとなった。なおローレンスはこの原爆投下作戦に関する記事で1946年のピューリッツァー賞を受賞している。
^ なおボックスカーは出撃直前になって後部爆弾倉ブラダの予備タンクの燃料ポンプに故障が見つかり、2000ℓの燃料が使えないままになることが分かった。しかしスウィーニーは修理することは原爆投下作戦の延期に繋がると考え、ぎりぎりで帰還できると見込み、修理はせずに日本時間8月9日午前2時45分に離陸した。
^ 日本時間8時12分に屋久島に到着。前方120mにボックスカーを発見。ウィリアム・ローレンス、崎川範行訳『0の暁』。しかし、William L. Laurence, “Dawn Over Zero: The Story of the Atomic Bomb” には、「4,000フィート前方」と書かれている。換算すると約1,200mである。
^ 日本時間8時56分に出発開始。ウィリアム・ローレンス、崎川範行訳『0の暁』
^ ウィリアム・ローレンス、崎川範行訳『0の暁』には、「21機の日本戦闘機が雲から現われ、われわれに向かって旋回上昇してくるのをみつけた。」と記されている。
^ 日本時間10時33分に西方約160Kmの長崎へ向かう。ウィリアム・ローレンス、崎川範行訳『0の暁』
^ レーダーモニター要員のビーザー中尉の回想でもアッシュウォース中佐がレーダー爆撃の命令を出す責任を取ったとしている。一方、スウィーニー少佐の回想ではレーダー(照準)で投下しようと提案したのはスウィーニーであり、アッシュウォース中佐は「わからんな」「精度に自信が持てるか?」と応え、スウィーニーがそれに対し「全責任を負う」と言ったとしている[13]
^ 軍事用語で「攻撃目標視認」の意。「I have insight」と同義。
^ 1976年にアメリカ・オークリッジ国立研究所のジョージ・D・カーの推定による数値。
^ 当初の投下目標は市街地の中心を流れる中島川にかかる常盤橋だった。実際の爆心地一帯は、予定通り当初の目標上空で爆発した場合、被害地域の最北端と試算された場所であった。
^ 広島原爆投下時と同じく、この落下傘をつけたラジオゾンデを目撃した市民は多く、このことから戦後しばらくの間、原爆は落下傘をつけて投下されたものと考えられていた。
^ ラジオゾンデは諫早市で回収されたとする資料があるが、これは落下後に同市の海軍士官宿舎に送られたためである。
^ これらのラジオゾンデには8月6日の広島原爆投下作戦にも同行した物理学者ルイ・アルヴァレらから、旧友である当時東京帝国大学教授であった物理学者嵯峨根遼吉に宛てた手紙が入れられており、原爆の威力について理解できるはずの嵯峨根から日本政府に降伏を働きかけるようにとの勧めが書かれていた。しかし、この手紙が嵯峨根博士に渡ったのは終戦後の9月になってからであった[21]
^ (原文)"Bombed Nagasaki 090158Z visually with no fighter opposition and no flak. Results 'technically successful' but other factors involved make conference necessary before taking further steps. Visible effects about equal to Hiroshima. Trouble in airplane following delivery requires us to proceed to Okinawa. Fuel only to get to Okinawa."
^ 広島市への原子爆弾投下時の映像が現像失敗などでほとんど残っていない現在、これは実戦に於いてほぼ唯一の原爆投下の映像である。この映像は1980年(昭和55年)に日本へ提供され、今でもテレビなどで用いられている。
^ 伊江飛行場とする説もあるが、スウィーニー少佐はその回想記の中では読谷管制塔を呼び出し着陸したとしている[24]
^ 現在の北九州市八幡東区八幡西区
^ 現在の中央区博多区と、南区早良区西区の一部のみ。なお、現在でも福岡市は九州最大の人口規模を誇る。
^ 「長崎原爆戦災誌」の総説編の改訂版に収録共同通信2006年5月20日付 また別証言で佐賀市内の学校でラジオを聞きながら同時刻を迎えた人の手記に、長崎からのラジオの叫び声が11:02に途切れ無音になったというものがある。
^ 背中から布がぶら下がっていると思いみると皮膚の一部だったという証言がある[34]
^ 幸運にも生還したオランダ人捕虜レネ・シェーファーは、後に『オランダ兵士長崎被爆記』と題した手記を出版している。この手記では、日本側の捕虜に対する対応が行き届いていたとする証言や、日本軍による連合軍捕虜虐待行為に対し(オランダ人による植民地住民に対する蛮行や、東京大空襲などの連合軍による国際法違反行為を例に出して)、心情に理解を示す記述が多く、本国オランダでの出版は出来ないでいた。その後日本の出版社に直接原稿を持ち込んで日本で最初に出版されたという。[36]
^ 現存するカルテは「8月12日午前11時50分重症認定」で終わっており、この前後に死亡したと推定されている[37]
^ 1950年の被爆生存者資料によれば10名確認されている。
^ 厚生労働省(当時厚生省)では二重被爆の事例を確認していない状態が続き、二重被爆者は広島・長崎どちらかの被爆事例のみを被爆者手帳に記録されるのみであった。2009年3月23日に二重被爆体験者である山口彊(認定当時93歳)が、長崎市から初めてその事実を認定され、被爆者手帳に両市での被爆の事実を追加記述した。
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