長屋王
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陸奥国出身で朝廷に仕えている者(衛士・資人・采女など)は全員本国に帰国させてそれぞれの地位に戻す[12]

養老7年(723年)4月:日向大隅薩摩の各国は兵役の負荷が重く、兵役の後に飢饉疫病が発生していることから、3年間租税を免除する[13]

また、長屋王政権における重要な民政策として開田策がある[14]

養老6年(722年)閏4月:秋の収穫後に10日を限度として人民を賦役させ、官粮や官の調度を活用して、諸司の裁量のもとで良田100万町歩の開墾を進めることとし、故意に開墾を進めない場合は官職を解任する(百万町歩開墾計画[12]

養老7年(723年)4月:人口の増加に伴う口分田の不足に対応するために、田地の開墾を奨励することとし、新たに田地を開墾した場合は三代目まで、田地を手入れして耕作できるようにした場合は本人の代のみ、それぞれ田地の所有を認める(三世一身法[15]

この頃、律令制支配の浸透によって蝦夷や隼人では反乱が頻発していたが、長屋王は朝廷の最高責任者として機敏な対処を行い、速やかな反乱の鎮圧を実現している[16]

養老4年(720年)9月:蝦夷の反乱により陸奥按察使・上毛野広人殺害されると[17]、連絡を受けた翌日には鎮圧に向けて遠征させるために持節征夷将軍・多治比県守と持節鎮狄将軍・阿倍駿河らに節刀を授けた[18]

神亀元年(724年)3月:海道の蝦夷の反乱により陸奥大掾・佐伯児屋麻呂が殺害されると[19]、1ヶ月ほどの間に征討軍として藤原宇合を持節大将軍、高橋安麻呂を副将軍に任じ[20]、さらに坂東九ヶ国の兵士3万人に軍事訓練を行った[21]

長屋王政権における政策の特色として、上述のような律令制の維持を目的とした公民に対する撫育・救恤策のほかに、官人に対する統制強化・綱紀粛正策も実施されている[22]

神亀4年(727年)2月:諸司の長官に対して、各官司の主典以上の官人について、勤務状況の良い者と悪い者(最上、次上、中等、下等の4段階)を選び、その名前を奏上することを命じる[23]。同年3月に報告が行われ[24]、最上・次上と判定された官人に対して?が与えられ、下等と判定された者は官職を解かれた[25]。なおこの際、長屋王自身は二位の最上で?100疋と、次に多い正三位(大伴旅人・藤原武智麻呂ら)の最上である40疋の倍以上が与えられたと見られる。

神亀5年(728年)3月:これまで外位の対象外であった中央官人に対しても外五位の叙位を行うこととし、その位禄蔭位位階について定めた[26]。同年5月に中央官人に対して実際に外五位の叙位を実施した[27]

長屋王の変詳細は「長屋王の変」を参照長屋王墓奈良県生駒郡平群町

養老5年(721年)11月に元明上皇が死の床で、右大臣・長屋王と参議・藤原房前を召し入れて後事を託し、さらに房前を内臣に任じて元正天皇の補佐を命じる[28]。こうして、外廷(太政官)を長屋王が主導し、内廷を藤原房前が補佐していく政治体制となる[29]。同年12月に元明上皇は崩御するが[30]、これにより政治が不安定化していたらしく、翌養老6年(722年)正月には多治比三宅麻呂謀反誣告を、穂積老が天皇を名指して非難を行い、それぞれ流罪に処せられる事件が発生する[31]。この事件は評価が分かれるが、長屋王に対する不満や反感がこの事件に繋がったとする考えがある[29]

神亀元年(724年)2月に聖武天皇即位と同時に議政官全員に対する昇叙が行われた[注釈 1]。この結果、長屋王は正二位左大臣に進む[32]

間もなく聖武天皇は生母である藤原宮子(藤原不比等の娘)を尊んで「大夫人」と称する旨の勅を発する[33]。しかし、3月になって長屋王らは公式令によれば「皇太夫人」と称すべきこと、勅によって「大夫人」を用いれば違令となり、公式令によって「皇太夫人」を用いれば違勅になる旨の上奏を行った。これに対して天皇は先の勅を撤回し、文章上は「皇太夫人」を、口頭では「大御祖」と呼称するとの詔を出して事態を収拾した(辛巳事件[34]。中国では、皇帝は新法の制定者で最終的な権威者で律令を超越できる(名例律18条「非常の際には律令に従わず裁断できる」とある)。これに準じて、日本でも養老律令・名例律、考課令官人犯罪条に同規定があるが、律令運用の中心は、太政官・議政官などの貴族層にあり実際は天皇も律令に拘束されると示した政治対立で、中国ではありえない[35]。この事件をきっかけとして長屋王と藤原四兄弟との政治的な対立が露になってゆく。

また、長屋王と吉備内親王の間の子女(膳夫王桑田王葛木王鉤取王)は先の霊亀元年(715年)に皇孫として扱う詔勅が出されるなど、一定程度の皇位継承権を持つことが意識されていたらしく、聖武天皇やその後継に万一の事態が発生した場合に、長屋王家の子女が皇嗣に浮上する可能性があった。このため、聖武天皇の外戚である藤原四兄弟にとって、長屋王家が目障りな存在だったと考えられる[36]

さらに当時の朝廷には、母親が非皇族かつ病弱であった聖武天皇を天皇に相応しくないと見なす考えがあり、先の聖武天皇の即位当日に行われた議政官全員に対する昇叙も高官たちの支援を取り付けるための措置であったとみられている[32]。聖武天皇は神亀4年(727年)11月に藤原光明子所生の皇子である基王を生れて間もなく皇太子に指名し[37]、基王が成人した後に譲位し、自らが太上天皇となって政治を行おうと目論む。なお、立太子後まもなく、大納言・多治比池守以下の諸官人が旧不比等邸に居住していた基王を訪問しているが、長屋王はこれに参加しておらず[38]、前代未聞の生後1ヶ月余りでの立太子を不満とし、反対の姿勢を明確に示した様子が窺われる[39]。結局、神亀5年(728年)9月に基王に満1歳になる前に先立たれてしまい、聖武天皇には非藤原氏系で同年に生まれたばかりの安積親王しか男子がいない状況となった。こうして、聖武系の皇位継承に不安が生じた状況の中で、藤原四兄弟が長屋王家(長屋王および吉備内親王所生の諸王)を抹殺した長屋王の変が発生する[36]

神亀6年(729年)2月に漆部君足(ぬりべのきみたり)と中臣宮処東人が「長屋王は密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す」と密告し、それをうけて藤原宇合らの率いる六衛府の軍勢が長屋王の邸宅を包囲する。この密告の対象となる具体的な内容は、前年に夭折した基王を呪い殺したことであったものと見られる[40]。なお、『兵防令』差兵条では20名以上の兵士を動員する際には、天皇の契勅が必要とされており、長屋王邸を包囲するための兵力動員にあたっては、事前に聖武天皇の許可を得ていたことがわかる。舎人親王などによる糾問の結果、長屋王および吉備内親王と所生の諸王らはをくくって自殺した。『獄令』決大辟条には、皇親及び貴族には死罪の代替として自尽が認められる(ただし、悪逆以上の大罪にはこれを認めない)という規定がある。従って、長屋王の自殺が自らの決断したものなのか、死罪の代替として宇合らに強要されたものなのかは明らかでない。

一方で、皇位継承権の埒外である藤原長娥子と所生の諸王(安宿王ら)には全く咎めはなかった。また、変に連座して罰せられた官人従五位下・上毛野宿奈麻呂ら微官の7名に過ぎず、皇親勢力の大物である舎人・新田部両親王が長屋王を糾弾する側に回るなど、長屋王が政権を握る中で藤原四兄弟に対抗できる勢力を構築できていなかったことは明白であった[41]


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