また、長屋王政権における重要な民政策として開田策がある[14]。
養老6年(722年)閏4月:秋の収穫後に10日を限度として人民を賦役させ、官粮や官の調度を活用して、諸司の裁量のもとで良田100万町歩の開墾を進めることとし、故意に開墾を進めない場合は官職を解任する(百万町歩開墾計画)[12]。
養老7年(723年)4月:人口の増加に伴う口分田の不足に対応するために、田地の開墾を奨励することとし、新たに田地を開墾した場合は三代目まで、田地を手入れして耕作できるようにした場合は本人の代のみ、それぞれ田地の所有を認める(三世一身法)[15]。
この頃、律令制支配の浸透によって蝦夷や隼人では反乱が頻発していたが、長屋王は朝廷の最高責任者として機敏な対処を行い、速やかな反乱の鎮圧を実現している[16]。
養老4年(720年)9月:蝦夷の反乱により陸奥按察使・上毛野広人が殺害されると[17]、連絡を受けた翌日には鎮圧に向けて遠征させるために持節征夷将軍・多治比県守と持節鎮狄将軍・阿倍駿河らに節刀を授けた[18]。
神亀元年(724年)3月:海道の蝦夷の反乱により陸奥大掾・佐伯児屋麻呂が殺害されると[19]、1ヶ月ほどの間に征討軍として藤原宇合を持節大将軍、高橋安麻呂を副将軍に任じ[20]、さらに坂東九ヶ国の兵士3万人に軍事訓練を行った[21]。
長屋王政権における政策の特色として、上述のような律令制の維持を目的とした公民に対する撫育・救恤策のほかに、官人に対する統制強化・綱紀粛正策も実施されている[22]。
神亀4年(727年)2月:諸司の長官に対して、各官司の主典以上の官人について、勤務状況の良い者と悪い者(最上、次上、中等、下等の4段階)を選び、その名前を奏上することを命じる[23]。同年3月に報告が行われ[24]、最上・次上と判定された官人に対して?が与えられ、下等と判定された者は官職を解かれた[25]。なおこの際、長屋王自身は二位の最上で?100疋と、次に多い正三位(大伴旅人・藤原武智麻呂ら)の最上である40疋の倍以上が与えられたと見られる。
神亀5年(728年)3月:これまで外位の対象外であった中央官人に対しても外五位の叙位を行うこととし、その位禄と蔭位の位階について定めた[26]。同年5月に中央官人に対して実際に外五位の叙位を実施した[27]。
長屋王の変詳細は「長屋王の変」を参照長屋王墓(奈良県生駒郡平群町)
養老5年(721年)11月に元明上皇が死の床で、右大臣・長屋王と参議・藤原房前を召し入れて後事を託し、さらに房前を内臣に任じて元正天皇の補佐を命じる[28]。こうして、外廷(太政官)を長屋王が主導し、内廷を藤原房前が補佐していく政治体制となる[29]。同年12月に元明上皇は崩御するが[30]、これにより政治が不安定化していたらしく、翌養老6年(722年)正月には多治比三宅麻呂が謀反誣告を、穂積老が天皇を名指して非難を行い、それぞれ流罪に処せられる事件が発生する[31]。この事件は評価が分かれるが、長屋王に対する不満や反感がこの事件に繋がったとする考えがある[29]。
神亀元年(724年)2月に聖武天皇の即位と同時に議政官全員に対する昇叙が行われた[注釈 1]。この結果、長屋王は正二位・左大臣に進む[32]。
間もなく聖武天皇は生母である藤原宮子(藤原不比等の娘)を尊んで「大夫人」と称する旨の勅を発する[33]。しかし、3月になって長屋王らは公式令によれば「皇太夫人」と称すべきこと、勅によって「大夫人」を用いれば違令となり、公式令によって「皇太夫人」を用いれば違勅になる旨の上奏を行った。これに対して天皇は先の勅を撤回し、文章上は「皇太夫人」を、口頭では「大御祖」と呼称するとの詔を出して事態を収拾した(辛巳事件)[34]。