長宗我部氏
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

^ 吉良宣直に入嗣。
^ 香宗我部親秀に入嗣。
^ 香川信景に入嗣。
^ 津野勝興に入嗣。

系譜参考


山本大 著『『土佐長宗我部氏』(1974年(昭和49年)、新人物往来社

家紋

定紋:七つ酢漿草(片喰・鳩酢草、
カタバミ

ほかに、「帆掛船(ほかけぶね)」や「慈姑(クワイ)」を定紋に使用している[2]家紋にまつわる話として、家臣の福留氏は功績により七つ酢漿草から一つを引いた「六つ酢漿草」を家紋として与えられた話が伝わる。

長宗我部氏に対し三千貫を領知する綸旨が下された際、賜った盃にカタバミの葉が浮かんでいたことから、カタバミを家紋とした[20]とされている。帆掛船は、秦氏が大陸から海を渡って来朝したのに基づくと言われ[2]、盛親が最期の際に帆掛船の家紋をあしらった袴を着ていたとされている。
分国法

長宗我部氏掟書(長宗我部元親百箇条) - 慶長2年(1597年)、元親・盛親父子が制定。

家臣組織
三家老
[21]


桑名氏

中内氏

久武氏

一族


中島氏

江村氏

大黒氏

上村(国吉)氏

その他主要家臣氏族


谷氏

福留(福富)氏

吉田氏

池添氏

長宗我部水軍


池氏

一領具足



高石左馬助(左馬之助)


岡豊城浦戸城
居城


岡豊城

白地城

大高坂城(現・高知城

浦戸城

主な支城


安芸城

脇城

一宮城

主な戦い
戦国時代四万十川十河城跡
土佐国統一戦


長浜の戦い - 対本山氏

戸ノ本の戦い


八流の戦い - 対安芸氏

四万十川の戦い - 対土佐一条氏

四国統一戦


第一次十河城の戦い

中富川の戦い

四国征伐


引田の戦い

第二次十河城の戦い

天正の陣

丸山城の戦い


四国征伐後(いずれも従軍)


九州征伐

戸次川の戦い


小田原征伐

文禄・慶長の役

関ヶ原の戦い

大坂の陣

真田丸の戦い

八尾・若江の戦い


脚注[脚注の使い方]
注釈^ 盛親の子孫を名乗る者は複数いるが、何れの場合も子孫であるとは証明されていない。
^ 秦氏の先祖弓月君は秦の始皇帝の後裔であるという(『新撰姓氏録』太秦公宿禰 項)。
^ この書状により、能俊入国の3つ目の説は否定されうる。
^ 伝統的な字体の「曾」、略字体の「曽」とも長らく表外漢字であったが、2000年平成12年)の表外漢字字体表では曾・が印刷標準字体、曽・が簡易慣用字体とされた。一方、2010年(平成22年)の常用漢字表改定では曽・が常用漢字として採用され、曾・はその旧字体と位置付けられることになった。ただ、表外漢字字体表はそのままであり、2020年令和2年)現在MS-IMEは曾・を印刷標準字体、「曽」を簡易慣用字体と表示している。
^ 友親の著書からは、「ちょうそがべ」が地元での通称なのか、戸籍上名前なのかまでは判然としない[9]
^土佐物語』には文明10年(1478年)に文兼が迎えたと記しているが、実際には『大乗院寺社雑事記』の記事の応仁2年(1468年)に大平氏の船で入国したと思われる[2]
^ 修行に出たのは長宗我部元勝とされるが、『土佐国編年紀事略』では元門の誤りである、としている。『土佐物語』・『四国軍記』では「元勝が応永年間に武者修行」と記すが、「元門が応仁年間に」の間違いと考えられる[2]
^ 四国攻め#長宗我部による四国統一についてを参照。
^ ただし、天正13年(1585年)には元親が既に大高坂を本拠にしていたとする説もある[14]

出典^続群書類従』長宗我部氏系図
^ a b c d e f g h i j k l m n 山本 1974.
^ a b 『更級郡誌』(1914年大正3年)、長野県更級郡役所)。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:79 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef