鏡子の家
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約1年3か月の執筆期間の間、三島は原稿用紙にして947枚書いており[17]、単純計算すると、1日2枚のペースだが、その間、お見合い結納結婚式新婚旅行ビクトリアコロニアル様式の新居の建築(大田区南馬込)、長女の誕生など、私生活の多忙があり、実際には1日に3 ? 5枚のペースだったとされている[18]
時代背景

『鏡子の家』で描かれる時代は、1954年(昭和29年)4月から1956年(昭和31年)4月までの2年間であるが、この時期は1953年(昭和28年)7月の朝鮮戦争の休戦で朝鮮特需が終り不景気に陥った時期から、再び景気が好転して高度経済成長の一歩を踏み出した時期にあたる[6]

三島は〈小説の人物の背後に経済が動いている〉とし[19]、以下のように時代背景を語っている。つまり経済学的ロマネスクをとらえようという野心があった。54年は朝鮮戦争の特需がとまり不況のドン底だった年だ。将来の見通しは暗く当時の青年は未来に希望をもたなかった。ところが恐れられた不況は少しずつうわむきになって好転し、そして財閥は不況をテコにして、不況によって独占資本を復活していく。ニューヨークは1956年に史上空前の繁栄をする。一方、青年たちはそうした景気立ち直りの方向とは何の関係もなしにますますみじめになっていく。経済が不況から立ち上ると同時に人間がボツラクするというアイロニーを使うために、この時期を選んだのだ。 ? 三島由紀夫「“現代にとりこむ”/野心作『鏡子の家』/三島氏に聞く」[19]
主題

三島は、『鏡子の家』の母胎は短編『鍵のかかる部屋』で、〈この短篇小説はエスキースのやうなもので、いづれは展開されて長篇になるべき主題を含んでゐた〉とし、〈『鏡子の家』はいはば私のニヒリズム研究だ。ニヒリズムといふ精神状況は本質的にエモーショナルなものを含んでゐるから、学者理論的研究よりも、小説家の小説による研究に適してゐる〉と述べながら、脱稿後に以下のように説明している[2]。登場人物は各自の個性や職業や性的偏向の命ずるままに、それぞれの方向へむかつて走り出すが、結局すべての迂路はニヒリズムに還流し、各人が相補つて、最初に清一郎の提出したニヒリズムの見取図を完成にみちびく。それが最初に私の考へたプランである。しかし出来上つた作品はそれほど絶望的ではなく、ごく細い一縷の光りが、最後に天窓から射してくる。 ? 三島由紀夫「日記」〈昭和34年6月29日(月)〉(のち「裸体と衣裳」に改題)[2]

4人の主人公のそれぞれの側面については、〈画家感受性を、拳闘家行動を、俳優は自意識を、サラリーマン世俗に対する身の処し方を代表し、おのづから、各人物の正確は抽象的になり、純化される筈〉だと執筆中の前年1958年(昭和33年)7月8日の時点で説明し[17]、刊行に際しての広告では、以下のように説明している[1]。「金閣寺」で私は「個人」を描いたので、この「鏡子の家」では「時代」を描かうと思つた。「鏡子の家」の主人公は、人物ではなくて、一つの時代である。この小説は、いはゆる戦後文学ではなく、「戦後は終つた」文学だとも云へるだらう。「戦後は終つた」と信じた時代の、感情と心理の典型的な例を書かうとしたのである。又、この小説は、「潮騒」や「金閣寺」のやうな、地方にのこる古い日本を描いたものでなく、すべての物語が東京紐育で展開する。四人の青年が、鏡子といふ巫女的な女性の媒(なかだ)ちによつて、現代の地獄巡りをする。現代の地獄は、都会的でなければならない。おのづからあらゆる挿話が、東京と紐育に集中するのである。 ? 三島由紀夫「『鏡子の家』そこで私が書いたもの」(「鏡子の家」広告用リーフレット)[1]

三島は、『青の時代』、『禁色』、『沈める滝』などでも青年を書いてきたが、いずれも自身が〈青年を十分に卒業してゐない〉時代に書いた失敗作だったとし、今度は自身が〈通りすぎた時代を卒業した目で〉描いてみたと述べている[19]。また後年にも〈わが青春のモニュメント書かうと思つた。一般受けする性質のものではないにせよ、ここには自分のすべてがはふりこまれてゐるはずだ〉と語っている[3]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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