明朝中国は海禁政策を採っていたが、勘合貿易により日明間の貿易は行われていた。しかし、1549年(嘉靖28年)を最後に勘合貿易が途絶えると、両国間の貿易は密貿易のみとなってしまった。ここに登場したのがポルトガルであった。ポルトガルはトルデシリャス条約およびサラゴサ条約によってアジアへの進出・植民地化を進め、1511年にはマラッカを占領していたが、1557年にマカオに居留権を得て中国産品(特に絹)を安定的に入手できるようになった。ここからマカオを拠点として、日本・中国・ポルトガルの三国の商品が取引されるようになった。
徳川家康が政権を握ると、オランダ、イギリスに親書を送り、オランダは1609年、イギリスは1613年に平戸に商館を設立した。しかしながら、両国とも中国に拠点を持っているわけではなく、日本に輸出するものはあまりなかった。結果イギリスは1623年に日本から撤退、オランダも日本への進出は商業的というよりむしろ政治的な理由であった[注 10]。なお、当時のスペインの関心はフィリピンとメキシコ間の貿易であり、1611年にセバスティアン・ビスカイノが使節として駿府の家康を訪れたが、貿易交渉は不調に終わっている。 ポルトガル船が来航するようになると、「物」だけではなくキリスト教も入ってきた。1549年のフランシスコ・ザビエルの日本来航以来、イベリア半島(スペインやポルトガル)の宣教師の熱心な布教によって、また戦国大名や徳川幕府下の藩主にもキリスト教を信奉する者が現れたため、キリスト教徒(当時の名称では「切支丹」)の数は九州を中心に広く拡大した。当時、近畿地方から東海地方を勢力圏としていた織田信長は、これを放任、豊臣秀吉も当初は黙認していたが、1587年にバテレン追放令を出し、1596年にサン=フェリペ号事件が発生すると、切支丹に対する直接迫害が始まった(日本二十六聖人殉教事件)[注 11][注 12]。 家康は当初貿易による利益を重視していたが、プロテスタント国家のオランダは「キリスト教布教を伴わない貿易も可能」と主張していたため、家康にとって積極的に宣教師やキリスト教を保護する理由はなくなった。また、1612年の岡本大八事件をきっかけに、諸大名と幕臣へのキリスト教の禁止を通達、翌1613年に、キリスト教信仰の禁止が明文化された。また、国内のキリスト教徒の増加と団結は徳川将軍家にとっても脅威となり、締め付けを図ることとなったと考えるのも一般的である。ただこの後も家康の対外交政策に貿易制限の意図が全くないことからこの禁教令は「鎖国」と直結するものではないとする指摘もある[34]。 当時海外布教を積極的に行っていたキリスト教勢力は、キリスト教の中でも専らカトリック教会であり、その動機として、宗教改革に端を発するプロテスタント勢力の伸張により、ヨーロッパ本土で旗色の悪くなっていたカトリックが海外に活路を求めざるを得なかったという背景がある。一方、通商による実利に重きを置いていたプロテスタント勢力にはそのような宗教的な動機は薄く、特に当時、スペインからの独立戦争(八十年戦争)の只中にあったオランダは、自身が直近までカトリックのスペインによる専制的支配と宗教的迫害を受け続けたという歴史的経緯から、カトリックに対する敵対意識がとりわけ強かったことも、徳川幕府に対して協力的であった理由と言える。 とは言うものの、中国に拠点を持たないオランダやイギリスが直ちにポルトガルの代替にならない以上、ポルトガルとの交易は続けざるを得なかった。 キリスト教の禁令はローマカトリック教会に限定されていたわけではなく、平戸のオランダ倉庫はキリスト教の年号(1639年)を使用したことを理由に破壊され[35]、オランダ人墓地も同時期に破却、死体は掘り返され海に投棄された[36]。1654年、ガブリエル・ハッパルトは長崎での陸上埋葬の嘆願をしたが、キリスト教式の葬儀や埋葬は認められず、日本式で行うことを条件に埋葬が許可された[37][38][39][注 13]。 オランダ人の記録によると、徳川家光はオランダ人の宗教がポルトガル人の宗教と類似したものであると理解しており、オランダ人を長崎の出島に監禁した理由の一つにキリスト教の信仰があったとしている[43][注 14]。 エンゲルベルト・ケンペルは1690年代の出島において、オランダ人が日本人による様々な辱めや不名誉に耐え忍ばなければならなかったと述べている。キリストの名を口にすること、宗教に関連した楽曲を歌うこと、祈ること、祝祭日を祝うこと、十字架を持ち歩くことは禁じられていた[44][注 15]。 1637年9月、長崎奉行榊原職直と馬場利重はフランソワ・カロンに対してマカオ、マニラ、基隆侵略の支援をするよう高圧的にせまった[47]。カロンはマニラを襲撃する気も、日本の侵略軍を運ぶ意志もなく、オランダはいまや兵士よりも商人であると答えた。これに対して長崎代官であった末次茂貞はオランダ人の忠誠心は、大名が将軍に誓った忠誠心に等しいと念を押している[47]。
キリスト教の禁止