鎖国
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1811年(文化8年)ヴァシーリー・ゴロヴニーン大尉が国後場所の管轄する鎖国中の国後島に不法上陸、警固に就いていたアイヌと和人に捕らえられ、その後2年間拘留された(ゴローニン事件[20]

1812年(文化9年)8月、ディアナ号が国後島に来航する。日露間で身柄交換交渉が行われるが、日本側の拉致被害者である中川五郎治と歓喜丸漂流民6名が脱走したために交渉が決裂。帰途、ディアナ号艦長ピョートル・リコルド(ロシア語版)は報復として附近を航行していた歓世丸を襲撃、高田屋嘉兵衛やアイヌ船員ら数名を拉致、勘察加に強制連行し翌年6月まで抑留する。アイヌ船員ら数名は抑留地で命を落とし、帰らぬ人となった。

1813年(文化10年)9月、ディアナ号がゴローニンの解放交渉のため、日本人漂流民の久蔵を伴い箱館に来航する。なおこの時、ロシアに帰化した漂流民善六がロシア側の通訳として使節に同行していた[21]


フランス革命戦争とナポレオン戦争の余波[注 7]

1797年(寛政9年)から1809年(文化6年)にかけて、本国がフランスに占領されてしまったため、オランダ商館ヘンドリック・ドゥーフの依頼で数隻の米国船がオランダ国旗を掲げて出島での貿易を行った[22][注 8][注 9]

1808年(文化5年)、オランダと敵対関係にあった英国の帆走フリゲートフェートン号が、オランダ国旗を掲げ長崎に入港。フェートン号事件を起こす。その後も英国船出現が相次いだ。

日本人が描いたフェートン号日本人が描いたコロンバス号と米国水兵

1825年(文政8年)、徳川幕府は異国船打払令を出し、強硬政策に転換。

1830年(文政13年)、徳川幕府が領有宣言をしていたものの無人島となっていた小笠原諸島父島ナサニエル・セイヴァリーが上陸、入植した[23]

1837年(天保8年)商船モリソン号が音吉を含む漂流民を日本に送還するために浦賀に来航したが、異国船打払令に基づき日本側砲台が砲撃した(モリソン号事件)。この事件後、幕府内部でも異国船打払令に対する批判が強まった。

1842年(天保13年)アヘン戦争における朝の敗北による南京条約の締結に驚愕した徳川幕府は、政策を転換し、遭難した船に限り給与を認める天保の薪水給与令を発令した。

1844年(天保15年)、フォニエル・デュプラン大佐が率いるフランス海軍の遠征隊が琉球王国に来航、通商を求めるが拒否された。しかし、テオドール・フォルカード神父と通訳が那覇に残った。

1844年8月14日(弘化元年7月2日)、オランダ軍艦パレンバン号がオランダ国王ウィレム2世の将軍宛の親書を携えていた長崎に入港。この親書はシーボルトの起草によるもので、開国を求めたが幕府はこれを拒否した[24]

1845年(弘化2年)、捕鯨船マンハッタン号が、22人の日本人漂流民を救助し、マーケイター・クーパー船長は浦賀への入港を許可され、浦賀奉行と対面した[25]

1846年7月20日(弘化3年閏5月27日)、アメリカ東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドル代将戦列艦コロンバスおよび戦闘スループ・ビンセンスを率いて、開国交渉のために浦賀に入港した。しかし、条約の締結は浦賀奉行に拒否され、数日の滞在で退去した。浦賀にアメリカの軍艦が出現したことを受けて、幕府では無二念打払令の復活が検討された。

1846年7月24日(弘化3年6月2日)、フランスのセシル提督(Jean-Baptiste Cecille)がクレオパトル号で長崎に来航したが上陸を拒否された。このとき、那覇に留まっていたフォルカード神父を伴っていた[26]

1848年(弘化5年 / 嘉永元年)、ラナルド・マクドナルドが、日本人に英語を教えたいと自らの意志で、遭難を装って利尻島に上陸した。その後長崎に送られ、崇福寺大悲庵に収監され、本国に送還されるまでの半年間の間、ここで通詞14人に英会話を教えた。帰国後は、日本の情報をアメリカ合衆国本土に伝えた[27]

1849年4月17日(嘉永2年3月27日)、ジェームス・グリン大尉が艦長を務める米国の帆走戦闘スループ・プレブル(USS Preble)が、アメリカ捕鯨船員を救出のため長崎に来航、軍事介入の可能性をほのめかしつつ、交渉を行った。結果、船員とラナルド・マクドナルドが解放された。帰国後、グリンは米国政府に対し、日本を外交交渉によって開国させること、また必要であれば「強さ」を見せるべきとの建議を提出した。彼のこの提案は、マシュー・ペリーによる日本開国への道筋をつけることとなった。

1849年(嘉永2年)、英国海軍のブリッグ・マリナー号が浦賀に来航し、地誌的調査を行った。マリナー号には音吉が通訳として乗艦していた。音吉は日本とのトラブルを避けるため、中国人であると偽っていた。

1853年(嘉永6年)マシュー・ペリー率いるアメリカ艦隊が来航。開国を要求した。蒸気船の来航はこのときが初。

1854年(嘉永7年 / 安政元年)ペリーが再来航し、日米和親条約を締結。下田函館を開港し、鎖国体制が崩壊した。

1858年(安政5年)タウンゼント・ハリスと江戸幕府が日米修好通商条約を締結。鎖国政策が完全に撤廃された。

背景
南蛮貿易の開始

明朝中国は海禁政策を採っていたが、勘合貿易により日明間の貿易は行われていた。しかし、1549年(嘉靖28年)を最後に勘合貿易が途絶えると、両国間の貿易は密貿易のみとなってしまった。ここに登場したのがポルトガルであった。ポルトガルはトルデシリャス条約およびサラゴサ条約によってアジアへの進出・植民地化を進め、1511年にはマラッカを占領していたが、1557年にマカオに居留権を得て中国産品(特に)を安定的に入手できるようになった。ここからマカオを拠点として、日本・中国・ポルトガルの三国の商品が取引されるようになった。

徳川家康が政権を握ると、オランダ、イギリスに親書を送り、オランダは1609年、イギリスは1613年に平戸に商館を設立した。しかしながら、両国とも中国に拠点を持っているわけではなく、日本に輸出するものはあまりなかった。結果イギリスは1623年に日本から撤退、オランダも日本への進出は商業的というよりむしろ政治的な理由であった[注 10]。なお、当時のスペインの関心はフィリピンとメキシコ間の貿易であり、1611年にセバスティアン・ビスカイノが使節として駿府の家康を訪れたが、貿易交渉は不調に終わっている。
キリスト教の禁止

ポルトガル船が来航するようになると、「物」だけではなくキリスト教も入ってきた。1549年のフランシスコ・ザビエルの日本来航以来、イベリア半島(スペインやポルトガル)の宣教師の熱心な布教によって、また戦国大名や徳川幕府下の藩主にもキリスト教を信奉する者が現れたため、キリスト教徒(当時の名称では「切支丹」)の数は九州を中心に広く拡大した。当時、近畿地方から東海地方を勢力圏としていた織田信長は、これを放任、豊臣秀吉も当初は黙認していたが、1587年にバテレン追放令を出し、1596年にサン=フェリペ号事件が発生すると、切支丹に対する直接迫害が始まった(日本二十六聖人殉教事件)[注 11][注 12]


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