鎖国
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実際に「鎖国」という用語が幕閣の間で初めて使われたのは、1853年で、本格的に定着していくのは1858年以降とされている[10]。さらに一般に普及していったのは明治時代以降である[7]。したがって、「鎖国」という用語が広く使われるようになったのは明治以降で、近年では制度としての「鎖国」はなかったとする見方が主流である[11]

欧米では日本の外交政策については、ハーマン・メルヴィルの『白鯨(Moby-Dick)』(1851)で「double-bolted」(当時の玄関ドアなどの上下にそれぞれ取り付けられた様式で、天地スライド錠を締めている)、「locked Japan」(鍵のかけられた日本)との言及があるように、「鎖国」として認識されていた。このため、江戸時代以外の時代の孤立外交も「鎖国」の名で呼ばれることになった。そのため、近年歴史学者の間では「鎖国」ではなく、他の東北アジア諸国でも見られた「海禁」に改めようとする動きがある。また、近年の教科書においては、鎖国の前に「いわゆる」と付け加える、鍵括弧つきで「鎖国」と書く、などの表現も多い[要出典]。

なお、江戸時代には「鎖国」という言葉は用いられていなかったことを根拠に「鎖国」の存在を否定する意見が一部に見られるが、それを言った場合「」や「天領」といった言葉も鎖国と同様に明治以降に定着した公称である[12]
経過
「鎖国」完成までの歴史

「鎖国」体制は、第2代将軍秀忠の治世に始まり、第3代将軍家光の治世に完成した。

1612年(慶長17年)幕領に禁教令

1616年元和2年)朝以外の船の入港を長崎平戸に限定、家康による関東の西洋人居住許可を否定。

1617年(元和3年)堺において外国人の鉄砲等の武器購入が禁止。

1618年(元和4年)イギリス・オランダの輸入鉛購入先は幕府のみとなる。

1620年(元和6年)平山常陳事件。イギリス・オランダが協力してポルトガルの交易を妨害し、元和の大殉教に繋がる。

1621年(元和7年)日本人のルソン渡航禁止。イギリス・オランダに対して武器・人員の搬出と近海の海賊行為禁止を命じる。

1623年(元和9年)イギリス、業績不振のため平戸商館を閉鎖。

1624年寛永元年)スペインとの国交を断絶、来航を禁止。

1628年(寛永5年)タイオワン事件の影響で、オランダとの交易が4年間途絶える。

1631年(寛永8年)奉書船制度の開始。朱印船に朱印状以外に老中奉書が必要となった。

1633年(寛永10年)「第1次鎖国令」。奉書船以外の渡航を禁じる。また、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁じた。

1634年(寛永11年)「第2次鎖国令」。第1次鎖国令の再通達。長崎に出島の建設を開始。

1635年(寛永12年)「第3次鎖国令」。中国・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定。東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国を禁じた[13]

1636年(寛永13年)「第4次鎖国令」。貿易に関係のないポルトガル人とその妻子(日本人との混血児含む)287人をマカオへ追放、残りのポルトガル人を出島に移す。

1637年(寛永14年)?1638年(寛永15年)の寛永年間の島原?天草の乱。幕府に武器弾薬をオランダが援助した。

1639年(寛永16年)「第5次鎖国令」。ポルトガル船の入港を禁止。それに先立ち幕府はポルトガルに代わりオランダが必需品を提供できるかを確認している[14]

1640年(寛永17年)マカオから通商再開依頼のためポルトガル船来航。徳川幕府、使者61名を処刑。

1641年(寛永18年)オランダ商館を平戸から出島に移す。

1643年(寛永20年)ブレスケンス号事件。オランダ船は日本中どこに入港しても良いとの徳川家康の朱印状が否定される。

1644年正保元年)中国にて明が滅亡し、満州の李自成を撃破して中国本土に進出。明再興を目指す勢力が日本に支援を求める(日本乞師)が、徳川幕府は拒絶を続けた。

1647年(正保4年)ポルトガル船2隻、国交回復依頼に来航。徳川幕府は再びこれを拒否。以後、ポルトガル船の来航が絶える。

1673年延宝元年)リターン号事件。イギリスとの交易の再開を拒否。以降100年以上、オランダ以外のヨーロッパ船の来航が途絶える。

「鎖国」中の正規貿易(四つの口) と密貿易

「鎖国」政策の下、その例外として、外国に向けてあけられた4つの窓口を、現代になってから「四つの口」と呼ぶことがある(「四つの口」という語は1980年頃に荒野泰典が使い始めた。)[15]。松前口:対山丹人と間接的な対清朝中国松前藩白主会所直轄地)経由詳細は「山丹交易」を参照松前藩松前氏は来航する山丹人と間接的に交易し蝦夷錦などの大陸産品を入手してきた。江戸時代に入っても、その権限が引き続き認められ、蝦夷アイヌ)が交易を中継ぎする役割を担った。第一次幕領期以降、蝦夷地は幕府(箱館奉行)の直轄地として、幕府の管理で貿易が行われた。長崎口:対オランダと対清朝中国:長崎会所(直轄地)経由詳細は「長崎貿易」を参照長崎は幕府(長崎奉行)の直轄地として、幕府の管理で貿易が行われた。対馬口:対李氏朝鮮対馬藩経由対馬藩の宗氏中世から対朝鮮の外交、貿易の中継ぎを担ってきた。江戸時代に入っても、対馬藩にはその権限が引き続き認められ(釜山倭館における交易)、幕府の対朝鮮外交を中継ぎする役割を担った。薩摩口(琉球口):対琉球王国薩摩藩経由詳細は「琉球貿易」および「薩摩藩の長崎商法」を参照薩摩藩が琉球王国に侵攻、支配したことで、琉球を通じての貿易が認められた。

「鎖国」実施以前から、幕府は貿易の管理を試みていた。1604年には糸割符制度を導入し、生糸の価格統制を行った。糸割符は1655年に廃止され、長崎では相対売買仕方による一種の自由貿易が認められて貿易量は増大したが、1672年に貨物市法を制定して金銀流出の抑制を図り、さらに1685年には定高貿易法により、金・銀による貿易決済の年間取引額を、清国船は年間銀6000貫目・オランダ船は年間銀3000貫目に限定した。のちに、これを超える積荷については、銅・俵物・諸色との物々交換による決済(代物替)を条件に交易を許すようになったが、1715年海舶互市新例により代物替が原則とされた。また、定高は1742年と1790年の2回にわたり引き下げられたため、代物替による交易が中心となっていった[16]

いわゆる「鎖国」政策は、徳川幕府の法令の中では徹底された部類ではあったが、特例として認められていた松前藩、対馬藩や薩摩藩では、徳川幕府の許容以上の額を密貿易(抜け荷)として行い、それ以外の領内を大洋に接する諸藩も密貿易をたびたび行っていた。これに対して、新井白石徳川吉宗ら歴代の幕府首脳はこうした動きにたびたび禁令を発して取締りを強めてきたが、財政難に悩む諸藩による密貿易は続けられていた。中には、石見浜田藩のように、藩ぐるみで密貿易に関わった上に、自藩の船団を仕立てて東南アジアにまで派遣していた例もあった(竹島事件)。
オランダ風説書

「鎖国」中も幕府は唐船風説書オランダ風説書を通じて海外の情報を受信していた。1840年アヘン戦争発生をきっかけに、オランダのバタヴィヤ政庁はイギリス系新聞を基にした別段風説書を毎年提出するようになった。別段風説書ではジェームズ・ビドルマシュー・ペリーの来航予告のほか、海底ケーブル敷設といった情報も伝えていた[要出典]。


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