鎖国
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1644年正保元年)中国にて明が滅亡し、満州の李自成を撃破して中国本土に進出。明再興を目指す勢力が日本に支援を求める(日本乞師)が、徳川幕府は拒絶を続けた。

1647年(正保4年)ポルトガル船2隻、国交回復依頼に来航。徳川幕府は再びこれを拒否。以後、ポルトガル船の来航が絶える。

1673年延宝元年)リターン号事件。イギリスとの交易の再開を拒否。以降100年以上、オランダ以外のヨーロッパ船の来航が途絶える。

「鎖国」中の正規貿易(四つの口) と密貿易

「鎖国」政策の下、その例外として、外国に向けてあけられた4つの窓口を、現代になってから「四つの口」と呼ぶことがある(「四つの口」という語は1980年頃に荒野泰典が使い始めた。)[15]。松前口:対山丹人と間接的な対清朝中国松前藩白主会所直轄地)経由詳細は「山丹交易」を参照松前藩松前氏は来航する山丹人と間接的に交易し蝦夷錦などの大陸産品を入手してきた。江戸時代に入っても、その権限が引き続き認められ、蝦夷アイヌ)が交易を中継ぎする役割を担った。第一次幕領期以降、蝦夷地は幕府(箱館奉行)の直轄地として、幕府の管理で貿易が行われた。長崎口:対オランダと対清朝中国:長崎会所(直轄地)経由詳細は「長崎貿易」を参照長崎は幕府(長崎奉行)の直轄地として、幕府の管理で貿易が行われた。対馬口:対李氏朝鮮対馬藩経由対馬藩の宗氏中世から対朝鮮の外交、貿易の中継ぎを担ってきた。江戸時代に入っても、対馬藩にはその権限が引き続き認められ(釜山倭館における交易)、幕府の対朝鮮外交を中継ぎする役割を担った。薩摩口(琉球口):対琉球王国薩摩藩経由詳細は「琉球貿易」および「薩摩藩の長崎商法」を参照薩摩藩が琉球王国に侵攻、支配したことで、琉球を通じての貿易が認められた。

「鎖国」実施以前から、幕府は貿易の管理を試みていた。1604年には糸割符制度を導入し、生糸の価格統制を行った。糸割符は1655年に廃止され、長崎では相対売買仕方による一種の自由貿易が認められて貿易量は増大したが、1672年に貨物市法を制定して金銀流出の抑制を図り、さらに1685年には定高貿易法により、金・銀による貿易決済の年間取引額を、清国船は年間銀6000貫目・オランダ船は年間銀3000貫目に限定した。のちに、これを超える積荷については、銅・俵物・諸色との物々交換による決済(代物替)を条件に交易を許すようになったが、1715年海舶互市新例により代物替が原則とされた。また、定高は1742年と1790年の2回にわたり引き下げられたため、代物替による交易が中心となっていった[16]

いわゆる「鎖国」政策は、徳川幕府の法令の中では徹底された部類ではあったが、特例として認められていた松前藩、対馬藩や薩摩藩では、徳川幕府の許容以上の額を密貿易(抜け荷)として行い、それ以外の領内を大洋に接する諸藩も密貿易をたびたび行っていた。これに対して、新井白石徳川吉宗ら歴代の幕府首脳はこうした動きにたびたび禁令を発して取締りを強めてきたが、財政難に悩む諸藩による密貿易は続けられていた。中には、石見浜田藩のように、藩ぐるみで密貿易に関わった上に、自藩の船団を仕立てて東南アジアにまで派遣していた例もあった(竹島事件)。
オランダ風説書

「鎖国」中も幕府は唐船風説書オランダ風説書を通じて海外の情報を受信していた。1840年アヘン戦争発生をきっかけに、オランダのバタヴィヤ政庁はイギリス系新聞を基にした別段風説書を毎年提出するようになった。別段風説書ではジェームズ・ビドルマシュー・ペリーの来航予告のほか、海底ケーブル敷設といった情報も伝えていた[要出典]。
「開国」までの動きと「鎖国」の終焉日本側が記録したレザノフの船と、「手下の役人」と形容された武装兵

18世紀後半から19世紀中頃にかけて、ロシア帝国イギリスフランスアメリカ合衆国などの艦船が日本に来航し、交渉を行ったが、その多くは拒否された。しかし、1853年7月8日には、浦賀アメリカマシュー・ペリー率いる黒船が来航し、翌1854年3月31日には、日米和親条約が締結され、「開国」に至った。その後、日米修好通商条約1858年)を初めとする不平等条約が続々と締結され、鎖国体制が崩壊した。

1778年(安永7年)、ヤクーツクの商人パベル・レベデフ=ラストチキンアッケシ場所に来航。松前藩に、交易を求めたが拒否された。幕府には報告されず[17]


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