中世アラビア語圏における「錬金術」の定義はさまざまであるが、劣位の金属を変成(transmutation)させて高位の金属を得ることがテーマの技術であり、岩石学や鉱物学に近いが厳密には異なった[19]。鉄鉱石や金鉱石から鉄・金を精錬する冶金術とも異なり、ガラスや金・銀のまがい物を製造する技術でもなかった[19]。染色や香料製造も錬金術ではなく、薬化学はこの時代にはまだ存在していない[19]。冶金、染色、香料製造といった工芸的技術と錬金術が根本的に異なっていた点は、錬金術が理論的基礎を持っていた点である[19]。
錬金術師たちは、多様な鉱物は本来、一性(djins)であり、複数の要因によって本質的な(dh?tiyya)鉱物なり非本質的な鉱物なりになっているに過ぎないと考え、要因は定常的ではなく変更可能であるから変成は可能であると考えた[19]。このような理論的基礎の上、錬金術師たちは、大地の奥底で数千年かかって劣位の金属が高位の金属に変成するプロセスを、加速させる技術を研究した[19]。
人為的な変成が可能か否かについて、錬金術師ではない学者の意見は多様であった[19]。ジャーヒズは懐疑主義的に、砂がガラスになるのに、真鍮が金に、水銀が銀にならないのは矛盾していると書いた[19]。キンディーは、自然にこそ留保された業を人類が為すことはできないと述べたが、のちにラーズィーがこれに激しく反論した[19]。ファーラービーは、変成は可能であるが簡単にできるようであれば通貨の価値が暴落するため、錬金術書はわざとわかりにくく書かれている、そのため不可能になっていると、錬金術を擁護した[19]。アブー・ハイヤーン・タウヒーディーは人間に自然を模倣する能力がないと考え、イブン・スィーナーは認識論の観点から人為的な変成の不可能性を論じた[19]。後者によると、鉱物を他の鉱物から分ける特徴的な差異(fa??l, differentia specifia)を認識する能力が人間には備わっておらず、人間は当該特徴的な差異に付加された属性や一過性の因子を認識できるにすぎない[19]。イブン・スィーナーの論はトゥグラーイーやジルダキーにより反論を受けた[19]。
イブン・ハズム・アンダルスィーやイブン・タイミーヤをはじめとして、護教的・社会防衛的立場から、錬金術という業そのものを非難した学者も多い[19]。後者の弟子イブン・カイイム・ジャウズィーヤはイブン・スィーナーと同様に錬金術は鉱物の見かけだけを取り繕うものであると考え、さらに、錬金術は通貨の価値の暴落をもたらすことによって、神により創造された世界の秩序を壊しかねないとして錬金術を非難した[19]。
8-9世紀ごろを中心にアラビア語へ翻訳された文献、又は、翻訳という体裁をとって新たに著述された文献は、ヘルメス・トリスメギストスの教えについて語るものが多い[19]。錬金術師たちはヘルメスの信奉者であった[19]。ヘルメスはハッラーンのサービア教徒が精神的父祖と仰ぐ預言者であり、マニ教においてもマーニーに先行する五大預言者のひとりとされる預言者である[20]:149-150。マニ教の預言者論はイスラームのグノーシス主義的シーア派の預言者論の中にも姿を現し、ヘルメスは、最初に定住民の生活を組織し、ひとびとに様々な技術を教えるために遣わされた預言者として、預言者イドリースあるいは預言者エノクと同一視される[20]:149-150。
サービア教徒・マニ教徒のヘルメス主義は、9世紀エジプトの錬金術師ズンヌーン・ミスリー(英語版)を介してハッラージュら初期スーフィーへ、さらにのちには12世紀のスフラワルディーへと流れ込んでいった[20]:150-151。マスィニョン(フランス語版)によれば、一に礼拝・禁欲・祈願により神に近づきうるという信仰、二に占星術と結びついた円環的時間観、三に月下界と最高天、四元素と第五元素を対立させない、宇宙の統一性を強調する世界観といった特徴があるという[20]:150-151。
西ヨーロッパの錬金術『賢者の石を求める錬金術師』ライト・オブ・ダービー作(1771年)
1144年にチェスターのロバート (Robert of Chester) が『Morienus(モリエヌス)』を『錬金術の構成の書』としてアラビア語からラテン語に翻訳したものが西欧における最初のラテン語による錬金術書である[21]。また、バスのアデラードも錬金術を紹介した。それから錬金術が注目を集めるようになり、13世紀以降に大きく発展した。初期の有名錬金術研究者、スコラ学者のアルベルトゥス・マグヌス(ヒ素を発見したとされる[22])、トマス・アクイナスやロジャー・ベーコンは金属生成の実験に関心を持ったが、彼らの実践については定かではない。