銚子漁港
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房総沖(太平洋)は近代に至るまで鰯の漁獲地として知られ、かつ背後に広大な農地を持つ穀倉地帯である関東平野九十九里平野がひかえ豊富な資金力と必要時のみ動員できる労働力などの社会的条件を求め、紀州などの漁民が旅網や移住などの形で房総半島九十九里浜沿岸に進出してきた。などの近海魚を江戸に供給するとともに長く干鰯の産地として知られるようになる[15]

この頃、銚子半島の先端南部に位置する外川漁港も、江戸時代前期の漁師である紀州藩崎山次郎右衛門によって、1658年万治元年)と1661年寛文元年)の2期にわたり、外川浦に完成する[16]。屋号は大納屋[16]。次郎右衛門は故郷から多くの漁師を呼び寄せ、漁業と海運を営み、当時の盛況ぶりは「外川千軒大繁昌」と語り継がれている[17]
東廻り航路と醸造業

江戸時代中期になると、石高制参勤交代制により、幕府城米、諸藩蔵米などの海上輸送が展開する。さらに諸商品の海外輸送も盛んとなり、城下町・港町・三都(大阪・京・江戸) を結ぶ海運のネットワークが整っていった。 そこで1670年寛文10年)に、幕府は江戸商人河村瑞賢に東廻り航路の整備を命じる。「銚子内海江戸廻り」と呼ばれ、東北の石巻や荒浜などの積出港からいったん外海に出て、鹿島灘沖から銚子河口付近に入り、そこから利根川をさかのぼって江戸に入る航路が利用される。時間も距離も短縮できるが、波の荒い鹿島灘を横切り、暗礁を避けて銚子に入港するという、危険性の高いものであったため、「外海江戸廻り」という、東北の積出港から銚子沖を通り、房総半島をまわる。そして伊豆の下田に入り、そこから再び江戸に入る航路も利用されるようになる[18]。この頃、江戸では醤油製造が伸びて行き、富農名主層、近江商人、紀州の出身者などによって関東各地で作り始められたが、次第に独自の濃口醤油へと発展し、江戸への出荷を伸ばしていく。醸造家は関西からの下り醤油に対抗するため造醤油仲間を結成し、江戸の問屋との交渉や、原料の塩の購入などを共同で行いながら、品質の向上を図る。そして文化・文政期に江戸前の調理が発達すると、関東の好みは濃口醤油へと急速に傾き、関東の醤油が江戸市場を押さえることになる。その製造の中心が、銚子と野田(野田市)であり、利根川や江戸川に接し、物資の輸送に便利であったからである。ヤマサ醤油・ヒゲタ醤油などは、日本を代表する醤油メーカーとしての礎を築き、その後の銚子の繁栄につながったとしている[19]
川舟と運輸

1690年元禄3年)に幕府は城米を津出しする河岸を定めたため、選ばれた河岸は銚子漁港を含めて商品流通の要となっていった。周辺農村の年貢米や特産品を河岸から江戸に向け出荷し、帰りも商品荷物を運ぶことによって、河岸は急速に人や荷物が行きかう場所へと発展していった[20]。利根川はじめ川という水系インフラの充実により、北総地域一帯が栄えることとなったのである。その代表でもある佐原小見川香取市)は利根川水運の発達により、年貢米の津出し場や周辺地域の物資の集散地として栄え、醸造業などの産業も発展した。この時期、佐原は「お江戸みたけりゃ佐原へござれ佐原本町江戸まさり」といわれるほどの賑わいを見せていた。利根川下流で主に使われていた舟は主に高瀬舟であり、最大級のもので、船長約26.96メートル、船幅 5.1メートル 余り、積載量は米 1,200俵(約72トン)であったと言われている[21]
近代
銚子港の繁盛と整備犬吠埼灯台

交通の要所、魚介類の水揚げ場、醤油の生産地として栄え、多くの船舶が入出港し、明治時代に入ると銚子漁港はますます漁業の港として栄えることになる。明治初年頃の銚子(飯沼)は、千葉県で一番人口の多い都市であった[22]。また、利根川を蒸気船が就航することになり、銚子?東京間を結ぶようになると、東京及び周辺地域から避暑や海水浴で大勢の人が訪れた[23]

犬吠埼付近に岩礁、暗礁が多く、海流が複雑で、1868年慶応4年)には、幕府の軍艦「美賀保丸」が暴風雨に遭い、黒生(くろはい)沖の岩礁に乗り上げて座礁沈没、乗組員が死亡するという事故も起きていた。このような状況の中、銚子港の改修と洋式灯台の設置が求められ、明治初期に江戸条約によって建設された8基、及び大坂条約によって建設された5基の洋式灯台に続く重要な灯台として建設が決まり、1872年(明治5年)に着工。1874年(明治7年)には犬吠埼灯台が完成する。1886年(明治19年)には銚子地方気象台1908年(明治41年)には銚子無線電信局が建設されている。その後、1897年(明治30年)には国鉄総武本線銚子駅まで開通、利根川沿いの国鉄成田線1898年(明治31年)には佐原駅まで開通し、のちに松岸駅まで開通したことで総武本線と接続した。両方の鉄道が銚子まで延伸したことで旅客や貨物輸送は増加し、銚子への観光客はさらに増えて観光産業が盛んになった。 また、江戸時代後期以降の銚子港は漁港として賑わい、東回り海運が衰退する明治期以降も、ますますその需要を伸ばした。

ところが、港湾の形状は依然として整備されず、船舶を迅速に運転できるよう近代化する必要に迫られていた。第一次整備計画が完成したのは1925年(大正14年)のことであった。1932年(昭和7年)に第一卸売市場(中央市場)が完成する。
現代
日本屈指の漁港町「銚子」へ銚子漁港第1卸売場(中央市場)

第二次世界大戦末期に、銚子周辺は東京を空襲するB-29の侵入ルートとなり被害を受けた。この空襲により、戦前の港町らしい町並みや隆盛を誇っていた江戸時代からの建造物の多くを失った。第一次整備計画からその後、工事は第九次整備計画(平成6?13年度)まで続けられ、今日のかたちになっている。外洋から銚子外港へ入り、運河で第一卸売市場まで入ることができ、大きな海難事故もなくなっている[7]1951年(昭和26年)7月10日 には全国で初めて特定第3種漁港に指定され、銚子漁港は水産業の振興のためには特に重要な位置づけとなった。地元漁船はもとより、北は北海道から、南は沖縄にいたる沖合漁船の一大根拠地として発展している[2]

また、観光都市としても成長した銚子市は漁港区域内に銚子ポートタワー及びウォッセ21(水産物卸売センター)を整備。漁港のシンボルであると同時に犬吠埼灯台と併せて銚子の観光の拠点となっている。

マダイ、カツオ、マグロ類、マイワシ、サンマ、サバ、メカジキ、ブリ、アジ、ヒラメなど、魚種も豊富であり、これら魚介類を取扱う魚市場・卸売場も銚子漁港整備に呼応し、第1・第2・第3卸売場と受入施設の整備拡充が図られ、全国有数の漁業根拠地として更なる発展が期待されている[24]
密漁

2000年代以降、海水温の上昇などで銚子付近ではイセエビが増加傾向となった。こうしたイセエビを防波堤などで密漁する者も増え、2020年代においては毎年20人から30人が海上保安庁漁業法違反容疑で摘発される状況となっている[25]
沿革

1944年(昭和19年)10月1日 - 新生駅からの引き込み線が開通する。

1945年(昭和20年)10月15日 - この日から7ヶ月にわたり、旧日本軍の兵器・弾薬処理作業に漁港が使用される。

1951年(昭和26年)7月10日 - 特定第3種漁港に指定される。

2011年(平成23年)3月11日 - 東日本大震災にて被災。死者・行方不明者こそなかったが、漁船・漁港施設や水産加工施設、銚子マリーナなどを中心に約65億円の被害を受ける。

漁港施設
市場
市場面積

魚市場用地の面積 40,243平方メートル

第1卸売場 21,678平方メートル

第2卸売場 6,165平方メートル

第3卸売場 12,400平方メートル

市場詳細
第1卸売場(中央市場)


鉄骨、鉄筋コンクリート2階建

飯沼町186番地の61 新生町一丁目36番地の2

建面積4,296平方メートル

第2卸売場


鉄筋コンクリート一部鉄骨1階建

川口町一丁目6278番地

建面積 801平方メートル

第3卸売場
(No.1)

鉄筋コンクリート一部鉄骨2階建

川口町二丁目6528番地

建面積 3,164平方メートル
(No.2)

鉄筋コンクリート一部鉄骨4階建

川口町二丁目6528番地

建面積 6,213平方メートル

トラックスケール

第1スケール 秤量50トン(第2卸売場)

第2スケール 秤量50トン(第2卸売場)

第3スケール 秤量60トン(第3卸売場先)


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