鉱業
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そのような装置は古代ローマの鉱山で多数発見されており、一部は大英博物館やウェールズ国立博物館が所蔵している[6]
中世-近世ヨーロッパ『鉱山書』を書いたゲオルク・アグリコラ

産業としての鉱業は中世に劇的な変貌を遂げた。中世前期の鉱業は、主に銅、青銅、鉄の採掘を行っていた。他にも貴金属を主に装飾と造幣のために採掘していた。もともと金属は露天掘りが中心で、ごく浅いところで採掘し、坑道を地中深く掘るということは少なかった。14世紀ごろ、武器、鎧、あぶみ、蹄鉄などの需要が増え、鉄の需要が増えた。例えば、中世の騎士は重い鎖帷子を身につけ、ランスなどの武器を装備していた[7]。軍事目的での鉄への依存が強まるにつれ、必要に迫られて鉄の増産が進んだ。

新たな鉄の軍事用途が登場したころ、ヨーロッパでは11世紀から14世紀にかけて人口が爆発的に増加し、通貨不足となって貴金属の需要も増えた[8]。1465年、あらゆる銀鉱が既存技術で排水可能な限界の深さに到達し、銀が採掘できないという危機的状況が発生した[9]紙幣の使用が増え、販売信用という仕組みも使われていたが、貴金属の価値と需要は衰えず、硬貨の需要は相変わらず中世の鉱業を推進する力となっていた。水車場という形態での水力利用は幅広く、鉱石を砕いたり、坑道から鉱石を引き上げたり、大きなを動かして坑道を換気したりするのに使われた。1627年、ハンガリー王国のシェルメツバーニャ(現在はスロバキアバンスカー・シュチャヴニツァ)で初めて採掘に黒色火薬を使用した[10]。黒色火薬は岩盤や土を爆破して鉱脈を明らかにすることを可能にし、火力採掘(岩盤を火で熱して水で冷却することで崩す方式)よりもずっと速かった。黒色火薬はそれまで不可能だった場所でも金属や鉱石の採掘を可能にした[11]。1762年、シェルメツバーニャに世界初の鉱業アカデミーが創設された。

農業においてもプラウの鉄の刃のように技術革新が広まり、建築における鉄の利用の増大もこの時代の鉄生産の増大を推し進める要因となった。スペインでは、採掘した鉱石を粉砕するのにひき臼などの発明を使うようになった。この装置は家畜の力を利用し、古代の中東で穀物の脱穀に使っていた技術と同様の原理で動作する[12]

中世の鉱業技法については、Biringuccioの De la pirotechnia や特にゲオルク・アグリコラの『鉱山書』(De re metallica, 1556) に詳しい。これらの本にはドイツやザクセンの鉱山で使っていた各種鉱業技法が詳述されている。アグリコラの著書によれば、中世の鉱山事業者が最も悩まされたのは、坑道の排水問題だったという。坑道を深く掘り進んでいくと、地下水脈にぶつかって坑道が水没する危険性が高まる。そのため様々な機械や家畜を使ってポンプ機構を駆動するようになり、鉱業が劇的に効率化されていった。

近世においても鉱業は、国王など富裕層の私的財産を築く基礎となり続けた。16世紀から18世紀にかけた重商主義時代のドイツでは、財産を形成するために必要な経営学的知識や自然科学的技術を広く包含した官房学が発達。その中でも収入を得るための知識の一つとして鉱業が重視され[13]、鉱山の経営や生産に関するノウハウの蓄積が進んだ。
南北アメリカミシガン州の銅鉱山(1905年)

北アメリカでは、スペリオル湖沿岸に先史時代の山の遺跡がある[14][15]。先住民は少なくとも5千年前に銅の採掘を始め[14]、銅製の器具や鏃や工芸品が見つかっている。さらに、黒曜石燧石や他の鉱石も採掘され、使われていた[15]。初期のフランス人開拓者がその鉱山跡に遭遇したが、輸送手段がないため金属の利用方法がなかった[15]。結局、銅は主要な川を使って大陸中で売買されるようになった。カナダのマニトバ州には、古代の石英鉱山がある[16]

アメリカ大陸の開拓初期には、主に中央アメリカや南アメリカの鉱山で採掘された金や銀がスペインのガレオン船団に収容され、即座にヨーロッパに送られていた[17]。紀元700年ごろにはトルコ石の採掘が行われていた。ニューメキシコ州の Cerillos Mining District では、石器を使って1万5千トンもの石が採掘されたと推定されている[18][19]

19世紀になるとアメリカ合衆国で鉱業が盛んになり、1872年の鉱業法 (General Mining Act of 1872) で連邦所有地での鉱業開発に拍車がかかった[20]。19世紀中ごろのカリフォルニア・ゴールドラッシュに代表されるように、鉱物や貴金属の採掘と牧場の拡大が西部開拓を太平洋岸まで推し進める主な要因となった。鉄道が敷設されると、さらに多くの人々が鉱山の仕事を目当てに西へと移住していった。デンバーサクラメントといった西部の都市は、もともとは鉱山町だった。
日本
古代

九州北部では弥生時代中期後半ごろから青銅器生産が行われており、那珂遺跡群比恵遺跡吉野ヶ里遺跡、乙隈天道町遺跡など多くの遺跡で、石製の青銅器の鋳型が多数発見されている[21]

瀬戸内海淡路島には1世紀前半から半ばごろ、鉄器生産を行う広大な工房が建てられており、遺跡として五斗長垣内遺跡舟木遺跡が発見されている。出土品は矢じりが多く、当時部族同士の争いも絶えなかったことを示しているが、その後、邪馬台国が台頭するとともにこの生産所は姿を消した[22]

筑紫島九州火山地帯などは鉱脈も豊富で、魏志倭人伝によれば、倭国の山には辰砂(丹。朱色の塗料で、仏像の鍍金などに使われる水銀の原料。)があり、女王卑弥呼帯方郡へこれも献上しに行ったとされる。古墳時代の5世紀初頭にできたとされる海部王亀塚古墳からは装飾品としてガラスの小玉が発見されている。

6世紀には百済から五経博士が渡来しており、鉱業技術の伝搬もあったと見られ、朱砂(真朱。辰砂の一種)から出た亜硫酸ガス中毒によるものと思われる鍛冶の死者の記録がある(『八幡宇佐宮御託宣集』、『弥勒寺建立縁起』)。一説に古代九州の鉱業は各所の八幡神社を拠点として発達し、口戸磨崖仏臼杵磨崖仏など山奥の石仏群は、鉱業における死者を弔うためのもので、用明天皇豊国祖母山や小倉山を訪れたのも鉱業の査察のためだったという[23]。当地は洞窟の大蛇と人の娘が子を作ったという伝説や、洞穴を祀る神社石、岩を祀る神社などもあり、鉱業文化の色合いがある。その他、砂鉄の産出やたたら製法も盛んだったと見られる。

また、朝鮮半島の任那加羅諸国の遺跡からは日本の勾玉が発見されており、貿易によって利益が得られていたことは当然に考えられる。

飛鳥時代の660年に百済が滅びたのちは渡来人が増え、鉱山開発や精製技術の発展を促した。新羅系渡来人は香春岳(福岡県)などを開発した(8世紀の『豊前国風土記』)。

奈良時代の708年には秩父の銅山(埼玉県)が発見され、和同開珎などの貨幣が製造された。また745年の東大寺奈良大仏製作については、約449トン、約8.5トン、約440kg、水銀約2.5トンが消費されている(『東大寺大仏記』)。万葉集に「仏造る 真朱足らずは 水たまる 池田朝臣が 鼻の上を掘れ」(大神奥守)の歌が見られるとおり、神社仏閣の建設や貨幣の鋳造に必要な鉱業はヤマト政権が大きな関心を寄せるところであった。

平安時代皇朝十二銭などの改鋳も鉱業が支えていた。


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