鉄道の電化
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国によって電化時期や経緯が異なるので電圧や(交流の場合)周波数もバラバラであり、ヨーロッパを例に取ると第二次世界大戦前はフランス・オランダ・イギリス[注釈 16]は直流1500V、ドイツとスカンディナビア諸国は単相交流1万5千V16.67(16と2/3)Hz、イタリア(三相交流切替後)・ロシア・スペインは直流3000Vを使用し、いずれも専用発電所から送電していることが多かったが、1970年代になると1920年代から研究されていた50Hz単相交流という一般商用周波数を用いた饋電が広がり、イギリス・フランス・トルコ・日本等で新たな電化路線に使用されたが古い方式を残す路線も多かったので場所によっては電気車は3種類又は4種類の電力を使える必要が生じたものもあった[23]

電化区間自体も国策や資源(電力)事情、産業動向等により、各国での電化率には偏りが見られる。スイスオランダといった国々が90%を越えるほか、ドイツフランスロシア等のヨーロッパ諸国や、中国韓国台湾日本等の東アジア諸国は50%を越える。北米大陸やオセアニア東南アジア等は電化率が低い。スイスなどでは比較的電化費用が安価で石炭産出が少なかったことから比較的早いうちに鉄道路線はほぼ全線が電化されている。アメリカやオーストラリアなどの大陸横断鉄道は電化されていない区間が殆どであるが、ロシアを横断するシベリア鉄道は電化されている。

なお、都市鉄道や地下鉄では電化のデメリットである「高コスト」が輸送量増大が見込めることで打ち消せられるため、全線が電化されているのが原則である。
電化・非電化区間が混在する路線

後述の通り、日本国内で電化・非電化区間が混在する路線は運行系統が途切れて別々の路線として扱われることが多い。例外的に大井川鉄道井川線のように輸送量増大目的ではなく何らかの理由で電気運転をやむを得ず使用する路線では非電化側の列車が直通する場合もある。

諸外国では、様々な方法を使って非電化混在路線での直通運転に対応している。例えばアメリカでペンシルバニア鉄道ワシントンニューヨーク電化以前は、ニューヨーク手前まで来た蒸気機関車の列車がニューヨーク入口のボルティモア・ベルトラインのトンネル(ここのみ電化)だけ蒸気機関車ごと電気機関車が牽引していた事例があった[24][9]。機関車を交替することで非電化混在路線に対応するケースもある[25]。特にインドなどの国でこのような運転方法がよく見られる[26][27]
日本「日本の電化路線の一覧」も参照

電気軌道では、路面電車系統では1895年明治28年)に京都市京都電気鉄道が開通しているが、一般の鉄道では甲武鉄道(現在のJR中央本線)が1904年(明治37年)に飯田町 - 中野間を電化したのが始まりである。当時の電化には、600 V(京都電気鉄道などのように500 Vの所も一部存在)の直流饋電が採用されていた[1](というより用いないといけなかった[注釈 17])。甲武鉄道は1906年(明治39年)の鉄道国有法によって国有化され、国営鉄道初の電化区間となった。以降、大正期は山手線東京都市圏での通勤電車走行を目的に実施され、昭和初期には城東線(現・大阪環状線)等大阪都市圏でも実施された。

一方私鉄では蒸気機関車運行だった南海鉄道(後の南海電気鉄道)が1907年(明治40)年から電化を始め、1911年(明治44年)には60 q以上の区間の電化を完成させるなど国営鉄道より長大な電化区間が誕生し、この時期国営鉄道にもなかった総括制御付きのボギー車(電2形、1909年)や、貫通扉便所のある電車(電3・電附1形、1911年)導入など、この当時は私鉄の方が電化に関しては先進的な面が強かった[28]

最も国営鉄道側も手をこまねいていた訳ではなく、1912(明治45)年に煤煙問題に悩まされていた碓氷峠を電化し、初の電気機関車の導入、1914年大正3)年には、京浜線(現・京浜東北線)の電車運転開始に際し輸送量増加に伴う電圧降下防止に昇圧されることになり、当時の技術等を考慮した結果、それまでの600 Vから1,200 V(丁度2倍の電圧なので電動機の直列並列を切替えれば従来の600 V区間との直通もできた)が使用され、その後技術向上もあってさらに電圧を上げられるようになり、1922年(大正11年)に出された東海道本線の全線1,500 V電化の計画[注釈 18]に先立って試験を行い、その結果を私鉄にも公開したところ、同年の大阪鉄道が私鉄で初めて1,500 V直流電源を採用(河内長野 - 布忍間)し、東海道線電化以後開業の私鉄は基本的に1,500 Vを採用するようになり、国営鉄道側も京浜線・中央線・山手線を1931年(昭和6年)までに1,500 Vに昇圧した[29]

この間、1927年(昭和2年)9月26日の東京朝日新聞「近く電化調査員会を設け電化区間の順位決定」という記事によれば、以下の区間が電化候補になったと報じられている。(路線名は出典ママ)

中央線 - 甲府 - 下諏訪

上越線 - 長岡 - 高崎

篠ノ井線 - 松本 - 多治見

宮地線 - 肥後大津 - 玉来

北陸線 - 柳ヶ瀬 - 今庄

高山線 - 高山 - 富山・岐阜 - 高山

山陰線 - 豊岡 - 鳥取

鹿児島線 - 人吉 - 吉松

越美線 - 福井 - 美濃太田

東北線 - 郡山 - 福島・福島 - 白石

津山線 - 姫路 - 津山

因美線 - 鳥取 - 津山

奥羽線 - 米沢 - 福島

東海道線 - 山北 - 沼津

その後、北陸線米原 - 今庄、奥羽線福島 - 米沢、山陰線鳥取 - 豊岡、東海道山陽線大津 - 明石間電化が昭和4年度予算に必要経費が計上されたが、浜口雄幸内閣による緊縮財政により各線電化が中止に追込まれてしまった[30]

時系列的に少し戻るが、昇圧のきっかけとなった東海道本線電化計画は試験機関車が来る前[注釈 19]から丹那トンネル開通まで見越して(実際の開通は1934年〈昭和9年〉)東京から国府津まで1,500 Vで直流電化(1925年〈大正14年〉)したが、その後は東海道線電化は一時考えないで大阪付近の輸送量が多い地域の電化や清水トンネル・仙山線といった長大トンネル付近の電化を優先的に行い、手間取っていた丹那トンネルの工事完了後は再び東海道線電化も考えられたが、1937年(昭和12年)に日中戦争が勃発、その先行きも不透明な中1941年(昭和16年)に対米開戦と、日本は戦争へと突き進み、電化工事は戦後まで持ち越されている[31]。(これら以外では関門トンネル(1941年(昭和16年))、外地の朝鮮総督府鉄道京元本線の福渓 - 高山間(1944年(昭和19年)なども電化)

こうした限られた部位のみの電化は当時の軍部が国営鉄道を建設・運営する鉄道院・鉄道省に対し、戦時に変電所を攻撃されると運転不能になることを理由に、基本的には非電化とすることを主張していたといわれているが[注釈 20]、国鉄の技師であった朝倉希一によると電化遅れについては軍隊の話は一切出ず「イギリスから輸入した電気機関車のトラブルとそれに伴う高コストが電化を遅らせた」としている[注釈 12]

なお、一から路線を作る予定だった「弾丸列車計画」(後に東海道新幹線として帰結する)でも東京 - 静岡・名古屋 - 姫路の2か所のみを直流3,000 Vで電化し、ここ以外は当面非電化による蒸気機関車牽引予定で[32]、そのために大型の蒸気機関車の設計がいくつか行われていた[33]

この時期は私鉄でも電化工事が進み、1927年には小田原急行鉄道で82km、そして1929年1930年には関東の東武鉄道と関西の参宮急行電鉄で立て続けに、130 kmを超す当時としては異例の長距離電車が運行され[注釈 21]目黒蒲田電鉄宮城電気鉄道富山電気鉄道など当初より電気軌道の利便性を兼ね備えた電気鉄道の開業が相次いだ。


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