鉄道の電化
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注釈^ 直流饋電では3,000 V程度が上限である。
^ 直流150Vの電気機関車が18人乗りの客車を12km/hで牽引した。
^ 『世界鉄道百科事典』p.384-385「BB機」ではこの電化を1896年としている。
^ 直流675V第三軌条集電方式、2軸車2両の永久連結でギアではなくゴムバンパーで動力伝達。
^ 単相交流を車内で回転式相変換器により三相交流に変化させて三相交流用のモーターを回転させる方法。余り使い勝手が良くなくその後世界の商用周波数単相交流利用には広まらず。
^ ここで言う「汽車」は都市の外に出て走る鉄道のこと。
^ スイス・イタリアでこの種の車両が実用化したように全く使えない訳ではないが、電動機の回転速度変動方法が極数切り替えや二次回路抵抗で運転速度が限られた事、起動トルクが小さく牽き出しに牽引力が必要な機関車向けで無いこと等が欠点だった。((鉄道の百科事典編集委員会2012 )p.30・43
^ その後、イタリアでは三相交流用電気機関車がいくつも生み出され、性能そのものは問題ないものの1920年代に「三相交流送電にはメリットはあるも技術的に伸びしろがない」と判断され、水銀整流器によって高圧直流電力が使えるように成ったりしたことから、ナポリ-フォッジャ線を直流3000Vで試験的に電化したところ成績が優秀だったため、1930年代に入るまでにこちらを主流に切替えている。((フランコ2014)p.169
^ プロイセンでは「低質で機関車には使えないが火力発電所なら使える」という石炭を使う火力電化も考えられていた。
^ なお、スイスの電化が盛んになったのは第一次世界大戦の影響で、ドイツから石炭輸入が出来なくなり、アメリカから買い付けしたり自国の山の薪で代用したりした結果、財政難覚悟で電化に踏み切った。
^ 既に実績があった路面電車などの600V直流では長距離送電が困難。
^ a b 原文「東海道線電化の一部として東京 - 国府津間電化のために一括してイギリスに注文した機関車の品質が悪く、安全運転さえ出来なかった。(中略)多くの改造の結果使用に耐える状態になったが、電化論者の主張は完全に裏切られ、電化は高価であることを事実上に示した。これが国鉄の電化実施を遅らせた大きな原因となった。」((朝倉1979-11)p.104
^ ミルウォーキー鉄道の710q電化区間の旅客列車は電化後の1921年時点でも1日につき片道2本ずつだけだった。((朝倉1979-5)p.116
^ スイスとイタリアは、両方とも石炭非産出国で輸入に頼らねばならなかったが、水力による発電量は相当得られる国であったため、第二次世界大戦前は電気機関車(及びそのための電化)に関しては先頭を行っていた。なお、他欧州諸国でも少しづつは電化は進んでおり、ドイツでは1930年代にあちこちで電化区間が生まれ、フランスではパリ-オルレアン鉄道(PO)が1926年に電化を始めた。((フランコ2014)p.167
^ 電気機関車の被害だけでも、1945年時点で動かせたものは戦前(880両)の1/4程度だった。((ロス2007)p.420
^ 実際にはイギリスはサードレール区間が多く600V付近の路線の方が多かった。
^ 当時の「電気事業取締規則及び電気鉄道電機取締規則」で電気鉄道は直流電圧600 V以下と言う制限があり、これ以上の高電圧が使えなかった。
^ 「東海道線全線を大正17年までに電化する」というような計画が出され閣議決定、東京 - 国府津の東海道本線と、国府津 - 熱海熱海線がまず電化されることになっていた。((福原2007)p.62
^ なお、電気機関車無しでも電気動力運行を始めるつもりだった証拠として、既に国産技術が確立した電車で100 q近い長距離に対応出来るようにしたデハ43200形が計画だけではなく実際に製造されている。ただし、デハ43200形は関東大震災による被災復旧に回され、実際にこの目的には使用されないまま終わっている。
(福原2007)p.62-63「1-13 木製電車の最後を飾った伝説の名車」)。
^ 東海道全線即時電化論者の内田信也は鉄道大臣時代に東海道本線電化を目論み、東久邇宮稔彦王に陸軍を押さえるよう頼んだが、押さえることは出来なかった。『喜安健次郎を語る』1959年、34-36頁
^ なお、戦前日本で最長の距離を走る電車列車は1912年(昭和12年)より豊川鉄道・鳳来寺鉄道・三信鉄道・伊那電気鉄道をまたがって運行された豊橋-辰野間の196 q。
(ただし、伊那電気鉄道の架線電圧は他社と異なる1,200 Vとなっていたため、戦後の1955年(昭和30年)に昇圧を行って電動車も直通可能になるまでは付随車だけ直通して、電動車は天竜峡駅で増解結を行っていた。詳しくは伊那電気鉄道の電車を参照。)
同区間は戦中の1943年(昭和18年)に国有化されて飯田線になっているので、国鉄でも戦後80系電車に更新されるまではここが最長の「電車列車の運行区間」であった。
(福原2007)p.108「戦前期の最長距離電車運転」
^ 『交通年鑑』昭和25年版161 - 163ページによると、昭和22年時点の石炭の質は戦争の影響がほぼ無い昭和11年と比較して熱量が「6,450 kcal/kgから5,350 kcal/kg」、完全燃焼前にボイラーから出て熱量損失になる粉炭率が「37 - 38 %から70 %」に悪化。そしてここまで低質になったにもかかわらず価格はハイパーインフレもあり282倍に高騰した。
^ 電化順に近江鉄道富山地方鉄道淡路交通福井鉄道栃尾鉄道大和鉄道弘南鉄道三重交通土佐電気鉄道下津井鉄道大井川鉄道北陸鉄道流山鉄道小坂製錬小坂線秋田中央交通遠州鉄道住友別子鉱山鉄道伊予鉄道東濃鉄道栗原鉄道相模鉄道十和田鉄道松尾鉱業鉄道長岡鉄道。 なお、相模鉄道が大手私鉄扱いになったのは1990年からで当時は含まれない。
^ どちらも水力発電所が盛んな地域の鉄道である。
^ ドッジライン自体は昭和24年から開始だが上記のデータは電化工事完了日時なのでずれがある。(『交通年鑑』昭和27年度版、交通新聞社、p.350・351)
^ なお、茨城県ではそれとは別に石岡市柿岡にある気象庁地磁気観測所での地磁気観測への影響回避のため直流電化が出来ないから非電化が多く残っている。
^ なお、これに関わった朝倉希一によると、この時には「蒸機・電機共に機関車を新造する」と言う前提で計算したため、厳密には現状の機関車を使用できる蒸気運転はもう少し低コストに見積もるべきで、1921年(大正10年)にミルウォーキー鉄道に調査に行った際「電化で不要になった蒸気機関車を全部下取りに出すから電気機関車購入のコスト(同鉄道では全電化費の半分)は実質半分ですむ」と言うそこまで中古機関車が高く売れるのか怪しい情報を聞かされたのを思い出した他、電化進展が速くなると蒸気機関車の他地域の転用ができなくなるのでそこまで楽観視するべきかどうかと指摘した所、部外の委員がこの調査で良いと言われて承認することにしたと言う。((朝倉1979-5)p.118
^ なお、既存直流区間も「(地上設備を減らせる)3000Vに昇圧させるべきではないか」と言う案が1975年頃から出たが、我が国で多い電車方式では(イタリアに3000Vで電車使用例があるので不可能では無いものの)高電圧の絶縁が厳しくなること、改造する車両数と電力設備が莫大なことから見送られた。((持永2012)p.32

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