鉄衛団
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一般的には脱獄の企ては無かったと信じられており、コドレアヌやその仲間が処刑された理由は、1938年11月24日に軍団がアルマンド・カリネスク(国王の内閣の内務大臣)の関係者を殺害した事件への報復であり、国王が処刑を命じたとされる。

国王の独裁は長く続かず、1939年3月7日、カリネスクを首相とする新政府が組織された。同年9月21日、今度はコドレアヌが処刑されたことへの報復として、カリネスク首相が軍団に暗殺された。この後も、血で血を洗う報復が続いた。
シマによる短い支配期

第2次世界大戦が始まってから数ヶ月間、ルーマニアは公式には中立を保った。カリネスク首相の暗殺後でさえ、カロル国王は中立を維持しようとした。ナチス・ドイツはまずポーランドを侵略したが、このとき、ルーマニアはポーランドの逃亡政府の関係者に避難先を提供した。フランスやイギリスがポーランドの保護を保証していたが、その約束は果たされなかった。1939年8月23日独ソ不可侵条約が締結され、ルーマニアとソビエトとの間にあるベッサラビアをソビエトが領有しようとしていることが明らかになっていた。ルーマニアも、フランスとイギリスから安全を保証されていたが、ポーランドと同様に、この約束は頼りにならなかった。やがてフランスは降伏し、イギリスはヨーロッパから退却したため、両国のルーマニアへの保証は完全に無意味になった。このような状況では、ルーマニアは、独・ソを頼るしかなかった。

枢軸国側との政治提携は、軍団の生き残りには明らかに有利に働いた。1940年7月4日に成立したイオン・ジグルトゥ(en:Ion Gigurtu)の政府には初めて軍団のメンバーが入閣したものの、それまでの抗争や弾圧によって主だったカリスマ的指導者達は既に死亡していた。その生き残りの一人が極端な反ユダヤ主義者のホリア・シマ(Horia Sima)であり、コドレアヌ亡き後にリーダーの肩書きを受け継いだ。コドレアヌの肖像の前でローマ式敬礼をするアントネスク(左)とホリア・シマ(右)

1940年9月4日、軍団はイオン・アントネスク将軍(後に元帥)と連携を組んで政権を奪い、カロル2世を強制的に退位させて息子のミハイ1世に王位を継がせた。彼らは、それまで以上に枢軸国側に味方する姿勢を明らかにした(ルーマニアは正式には1941年6月に枢軸国に参加する)。シマは、内閣の副首相となった。

軍団は、政権の座につくと、得意技術を活かして利益提供によって懐柔したり、商業・金融部門から徹底的に強奪や恐喝をしたりしながら、それまで以上に厳しい反ユダヤの法律を多く制定するようになった。また、ユダヤ人の虐殺や政治的な暗殺などが、堂々と行なわれるようになった。以前の高官や役人がジラヴァ刑務所に送られ、裁判なしで処刑された人数が60人以上に上った。元総理大臣で歴史家のニコラエ・ヨルガ(en:Nicolae Iorga)や、やはり元大臣で経済学者でもあったVirgil Madgearは、逮捕もなくいきなり殺された。

鉄衛団は、ホロコーストに加担したという悪名で知られている。東ルーマニア(ベッサラビアブコヴィナトランスニストリアヤシ市など)にいたユダヤ人は、集団的な殺戮(ポグロム)によって断絶した。

鉄衛軍が扇動してクーデターを起こしたが、1941年1月24日、ドイツ軍から支援を受けたアントネスクに鎮圧された。内戦の3日間、首都ブカレストの鉄衛軍は、何十人ものユダヤ人市民をブカレスト畜殺場で殺害するなど、ひどいユダヤ人虐殺を扇動した[10]。クーデター失敗の結果、軍団は公職から外され、政府の庇護も失った。ホリア・シマや他の軍団員はドイツに逃れたが、投獄された者もいた。シマはドイツ降伏後にスペインへ逃れ、1993年に死去した。
鉄衛団が残したもの

共産主義のルーマニア人民共和国の時代になってから、ルーマニアの小規模なファシスト集団が "Garda de Fier" を名乗った。また、ルーマニアのファシズムとは関係ないが、1970年代前半のアルゼンチンで、ペロニスタとして知られるフアン・ペロン大統領支持者たちが Guardia de Hierro(鉄衛団のスペイン語訳)を名乗った。

2000年に、ルーマニアで ⇒"Noua Dreapt?" (新しい権利)という極右団体が結成されたが、この団体は鉄衛団の後継者だと名乗っている。この団体はコルネリウ・コドレアヌを崇拝するカルトで、軍団の方針を受け継いでいる。

1970年代以降、著名な宗教史家ミルチャ・エリアーデ(作家、哲学者でもある)は、1930年代に鉄衛団を支持していたと批判を受けた。
関連項目

エミール・シオラン

ミルチャ・エリアーデ

脚注[脚注の使い方]
注釈^ Casa Verde
^ Fr??ia de Cruce
^ Legionarismul

出典^ Ioanid, Radu (2006). “[ルーマニア鉄衛団の神聖化された政治]”. "The sacralised politics of the Romanian Iron Guard". doi:10.1080/1469076042000312203. 
^ a b c ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク. 2018年9月23日閲覧。
^「緑の館」の画像
^ Evola, Julius (2015) (英語). "A Traditionalist Confronts Fascism" [ファシズムに立ち向かう伝統主義者]. アークトス・メディア. p. 71 
^ “ ⇒Iron Guard | Romanian organization”. 2022年1月20日閲覧。
^ S?ndulescu, p. 267
^ a b c d 日本大百科全書(ニッポニカ) コトバンク. 2018年9月23日閲覧。


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