鈴置洋孝
[Wikipedia|▼Menu]
同時に舞台の仕事に興味を持ち始める[13]

昼間は働き、夜は東京経済大学夜間部[9]に通っていた[5]。当時は女子学生が少なく、後に妻となる当時の恋人が「演劇部はないですか」と来て、本来はあったが「夜間はない」と言って、「フォークソングも演劇に近い」など適当にごまかして入部してもらったという[9]。その恋人に誘われて演劇を観るようになったという[9]。最初に観に行ったのが、佐藤オリエが出演していた劇団俳優座田中千禾夫作『マリアの首』[13]

ホテルオークラのルームボーイ、ゴルフ場のキャディをしながら大学に通っていたが、大学3年生の時に昼間に編入[5]

東京経済大学経済学部経済科卒業[1][2]。その頃、進路を決めかねているところもあり、三鷹市役所などの地方公務員の試験、小金井市役所を受けていたが、落選[2][7]。受かっていたら市役所の職員と語る[2]

その恋人は高校時代から演劇をしていたが、鈴置は23歳まで演劇の経験がなかったことから「基礎訓練をしたほうがいいんじゃないか」ということで東京アナウンスアカデミーに2人で半年くらい通っていた[9][13]
キャリア

1973年4月野沢那智が代表を務めた「劇団薔薇座」にて8期生として役者デビューを果たす[2][5][9][10]。薔薇座入団のきっかけは、大学在学中に通っていた同アナウンスアカデミーの講師に紹介されたこと[2]、その恋人が入団オーディションを受ける際、「思い切って飛び込んでみよう」という気持ちでオーディションを受けたことによる[13]。その時恋人と一緒に暮らしていたが、履歴書で恋人と住所が一緒だったことから分かり、「この鈴置って奴だけ落としたらかわいそうだ」ということで、結果的に「おまけ」で合格になったという[9][13]

劇団薔薇座に入団した年が、ミュージカル路線に切り替わり、それまで所属していた劇団員達が大量に退団しており、正規の劇団員は4、5人くらい少なくなっており、あとは鈴置ら研究生だった[9][13]

公演は打てないことから毎日朝10時から夕方6時まで演劇史、日本舞踊、発声、週3回ジャズダンス、2回はクラシックバレエ、週3回声楽と毎日レッスンに明け暮れていた[9][13]。それでけでは生活はできないため、夜終わってから2人でアルバイトして自宅に帰ったらバタンキュー!という生活が2年続いていた[9][13]

研究生2年の時に親に同棲が発覚して、結婚したという[13]。妻は女優、声優の秋野真理子で、同じく劇団薔薇座に所属していた[2][7]

公演がない時はレストランのウェイター、スナックで弾き語りのアルバイトをしていた[5]。初舞台は1976年ジャン・コクトー作の『円卓の騎士』[5]

声優としての仕事を始めたのは、劇団時代にさまざまなアルバイトをこなしているときに「同じバイトなら声の仕事をしてみては?」と誘われたのがきっかけだという[10]。その時、偶々研究生しており、東北新社から劇団に、「事務所から研究生がほしいから」ということで、「鈴置行け」ということで[11]、同年、東北新社でアテレコの研修会に参加していたのがきっかけで声優としての活動を始めたという[2][5][9]。声優デビューは『熱狂のレーサー』[2][9]で、その時はテレビの洋画吹き替えの「男1」などのその他大勢[13][10]。また番組レギュラー、ガヤや脇役として初めて出演したアニメは『超電磁マシーンボルテスV』のその他大勢である[13]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:217 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef