鈴置洋孝
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鈴置 洋孝(すずおき ひろたか、1950年3月6日[3][7][9][11] - 2006年8月6日[4][6][12])は、日本声優俳優ナレーター劇団プロデューサー愛知県名古屋市中区栄町(現:愛知県名古屋市中区栄)出身[5]賢プロダクションに所属していた[8]
略歴
生い立ち

愛知県名古屋市中区栄町(現:愛知県名古屋市中区栄)に生まれ育ち[5]、19年間暮らした。東京に父方の祖父母の家があり、生後間もない頃から年に1度東京に遊びに来ていた。東京に来た際は名古屋弁[8]標準語を使い分けていたという。小学校時代は、変な子供だったという[11]。家から学校まで歩いて5分位のところで道草しており、いつも30分くらいかけて行って、必ず遅刻する少年だった[11]。小学6年生の時の卒業文集のようなもので「将来何になりますか」に鈴置曰くわからず、なんでか無知だが、「灯台守」と書かれてあったという[11]。担任の教師が家庭訪問に来て「あの、とってもユニークなお子さんですね」と言っていたという[11]。自閉症だったが、既に伏線があり、自分のオリジナルの脚本でしていたわけあった[11]。一方、「何かやれ」というと真っ先にしている子供だった[11]。小学6年生の時、クレージーキャッツが流行しており、茶話会のようなのはあった時、最初に誰もやりたがらないわけだった[11]。それで教師が「鈴置何かやれ」と言うと鈴置が「アソーレ、スイスイスーダラダッタ」としていたという[11]。自称「かなり性根のすわったグウタラ」であり、愛知県立熱田高等学校[5]時代にて「だまっていても食える仕事はないか?」と教師に相談[7]。教師から、税理士になることを薦められて決意、大学に進学するために東京に上京[7]。高校時代までは内向的だったが、大学に入ってフォークソングを始めてからは社交的になったという[13]。大学時代はフォーク部を結成し、部長を務めた[9][13]。同時に舞台の仕事に興味を持ち始める[13]

昼間は働き、夜は東京経済大学夜間部[9]に通っていた[5]。当時は女子学生が少なく、後に妻となる当時の恋人が「演劇部はないですか」と来て、本来はあったが「夜間はない」と言って、「フォークソングも演劇に近い」など適当にごまかして入部してもらったという[9]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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