鈴木敏夫
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なお、スポーツニッポンの所属する毎日新聞グループが主催する「第78回(リンク先では77回となっているが78回が正しい)毎日映画コンクール」(2023年の一年間の作品が対象)にて「特別賞」を個人受賞するとともに映画『君たちはどう生きるか』が「アニメーション部門 大藤信郎賞」に選ばれ、2024年2月に授賞式に出席(後述)[5]。3月には第96回アカデミー賞で同作が長編アニメ映画賞を受賞し、宮ア駿と鈴木の両名に授与された[6]
徳間書店

大学卒業後の1972年、徳間書店入社。『週刊アサヒ芸能』企画部へ配属される[2]。1973年、成人向け劇画雑誌コミック&コミック』編集部を経て[7]、同年黒崎出版より刊行されていた、児童向けテレビ番組雑誌『テレビランド』がオイルショックのあおりを受けて徳間書店へ売却され、編集スタッフごと移ったのを機に自ら希望して『テレビランド』担当の児童少年編集部へ異動。

1978年、同編集部よりアニメ雑誌『アニメージュ』が創刊、発行される。80-81年、富野由悠季の連載「イデオン・ライナーノート」の担当編集者、「イデオン」特集も手がけた[8]。1981年には宮崎駿を初特集する。宮崎とは共同で『戦国魔城』と題した映画を企画し、徳間書店社長徳間康快に提出した[9]。結果は不採用であったが、1982年に宮崎執筆の漫画『風の谷のナウシカ』連載開始に尽力する[10]。後に同作の映画化が決定すると、宮崎の意を受け、プロデューサーを引き受けるよう高畑勲を説得し[11]、以降は高畑とともに『風の谷のナウシカ』の製作を支えた。

その後は『アニメージュ』初代編集長の尾形英夫が児童少年編集部全体の統括を担うと、実質的に『アニメージュ』の編集実務を担当し、後に尾形の後任として、正式に2代目編集長に就任した。『風の谷のナウシカ』映画化後は徳間書店側の制作委員も務めた。
スタジオジブリ

1989年10月にスタジオジブリへ移籍して以降は、同スタジオのほとんどの作品で映画プロデューサーを務めている。移籍した当時、『天空の城ラピュタ』、『となりのトトロ』・『火垂るの墓』等の興行成績は振るわず、『魔女の宅急便』が最後だと言われる状況であった。そこで、日本テレビと提携することで、『魔女の宅急便』をヒットさせ、後のスタジオジブリ作品の興行的成功とブランド確立につなげた。メイキングビデオ『もののけ姫はこうして生まれた。』では、爆発的なヒットを仕掛けた宣伝プロデューサーとしての一面が収められている。しかし『ホーホケキョ となりの山田くん』や『イノセンス』では興行目標がクリアされなかった。

1997年、スタジオジブリが徳間書店に吸収合併され、社内カンパニーとして発足した「スタジオジブリ・カンパニー」のプレジデントに就任した。1999年、同書店が事業本部制を導入し、「スタジオジブリ事業本部」が設立されると、本部長に就任した。2005年、スタジオジブリが徳間書店から再独立した際には、代表取締役社長に就任した。2008年2月1日付でスタジオジブリ代表取締役社長を退任し(後任は星野康二)、以降は代表取締役プロデューサーを務めていた。

『イノセンス』で共同プロデューサーをした、もう一人のプロデューサー石川光久に「ジブリの社長をやってくれないか」と打診していたが断られている[12]

2016年に初の公開師弟対談を行う。対談相手は鈴木の下で仕事を学んだ石井朋彦

2023年10月6日、日本テレビ放送網がスタジオジブリの株式を取得して子会社化したのと同時に鈴木はスタジオジブリの代表取締役議長に就任した[13]

本業以外に『耳をすませば』に端役で出演している。『ハウルの動く城』では宮崎監督に代わり、公式ポスターの原画を、『ゲド戦記』では題字を担当している。押井守監督作品の実写映画では短編『KILLERS キラーズ』で「悪徳アニメプロデューサー」役、2006年公開の『立喰師列伝』では立喰師役の一人(これは本人の懇願によって実現した)、『THE NEXT GENERATION -パトレイバー-』のエピソード6では「『熱風社』」映像プロデューサー」として出演している。また、DVDノンちゃん雲に乗る』の中で、大橋のぞみに付く二枚目風運転手役で出演しその横顔を決めている。2004年には東京大学大学院の情報学環にて特任教授に就任し、「コンテンツ創造プログラム」などを講じた[14]
対人関係
高畑勲
アニメーション監督の
高畑勲とは、『アニメージュ』の取材を通じて知り合った。プロデューサーの役割や映画の作り方について、高畑から学んだと語っている。高畑が『風の谷のナウシカ』で初めてプロデューサーを務めた際、鈴木も高畑とともに映画製作に携わっていた。高畑が勉強しながら手探りでプロデューサーを務める様を見て、鈴木は「非常に具体的かつ分かりやすくアニメーション映画の作り方を学べた」[15]としている。宮崎駿と鈴木が企画した『風の谷のナウシカ』の映画化が決定すると、宮崎の要望に基づき、鈴木は高畑勲にプロデューサーを引き受けるよう要請した[11]。高畑が慎重な姿勢を崩さないため、鈴木は高畑の自宅に日参し1か月に渡って延々と説得を繰り返した[11]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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