鈴木喜三郎
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大正14年(1925年)に公布された普通選挙法に基づく最初の総選挙となった第16回衆議院議員総選挙では、大々的な選挙干渉を行い、野党の立憲民政党側の猛反発と同党選挙革正委員会及び伊沢多喜男の呼びかけによる貴族院を中心とする選挙監視委員会による対抗を招き、選挙後、責任を問われ内相辞任を余儀なくされた。

その後、政友会党内で義弟に当たる鳩山一郎の支援を得て実力者となり、昭和6年(1931年)、犬養内閣の司法大臣・内務大臣として入閣した。12年近く務めた貴族院議員を辞職し、昭和7年(1932年)2月に実施された第18回衆議院議員総選挙に神奈川県第一区より出馬し、初当選した。5月に五・一五事件により犬養首相が暗殺されると、政友会の後継総裁に選出される。総理在任中の死亡後継には、原内閣後の高橋是清加藤高明内閣後の若槻禮次郎濱口内閣後の若槻礼次郎の例もあり、憲政の常道からすれば政権党の後継党首である政友会総裁として後継内閣の首班に奏薦されるところだったが、英米との協調外交と憲法遵守の精神を首班の大原則としていた元老西園寺公望は鈴木にはこの2点で難があると判断、この際は中間内閣やむなしとの判断に至り[3]、親英米派として知られ朝鮮総督を2期つとめて行政能力が証明済みだった退役海軍大将の斎藤実大命降下となった。このため、政友会は斎藤内閣と続く岡田内閣において野党路線を取り続けた。斎藤内閣では党内の意向に配慮して自らは入閣しない形で閣僚を送ったものの、この間に帝人事件が起きて政友会幹部が多数逮捕されるが、これは鈴木が尊敬していた平沼騏一郎が、首相の地位を目指して障害となる政友会(結果的に総裁の鈴木)を追い落とすために仕組んだといわれる陰謀だった。その後岡田内閣でも入閣した高橋是清元総裁を「別離」、有力政治家3名を「除名」処分にしたことから党内に亀裂が生じた。昭和10年(1935年)に天皇機関説問題が起きると国体明徴声明をめぐって岡田内閣を攻撃したが、この頃から鈴木は健康を損ね、病気の悪化が党内の亀裂に拍車をかけた。

昭和11年(1936年)2月20日の第19回衆議院議員総選挙で衆議院に再び出馬したが、政友会総裁でありながら落選し指導力を失い、総裁は居ながらも党は集団指導体制へ移行していった。党内からは総裁辞任の声が高まるが、鳩山一郎は鈴木の貴族院議員への再任工作を行い、その結果鈴木は昭和11年(1936年)には貴族院勅選議員に勅任された身であるとして鈴木の総裁続投を実現させ、鳩山は党内での親鳩山勢力を伸張させた。昭和12年(1937年)、鈴木は任期限りでの退任を表明し、党は総裁代行委員4名による集団指導体制へ再び移行することになる。そして来る昭和14年(1939年)5月に任期満了で総裁を退任。後継総裁を巡って政友会は事実上分裂し、これが政友会の解党と大政翼賛会の結成という流れの伏線となった。大政翼賛会発足直前の昭和15年(1940年)6月24日、死去。享年74。墓所は谷中霊園
ゆかりの地

神奈川県伊勢原市にある国指定登録有形文化財「雨岳文庫 山口家住宅」の外庭には、小田原市にあった鈴木喜三郎別荘の離れが移築され、現存している[4]

また長野県軽井沢町では、鈴木総裁を中心として、離山麓三万三千坪を貿易商野沢源次郎から買収し、主に政友会メンバーの松野鶴平砂田重政前田米蔵内田信也山岡万之助芳沢謙吉伍堂卓雄宮田光雄箸本太吉島田俊雄肥田琢司らと別荘三〇余戸を建てた[5]。鈴木はこの地を「山の地底からしみ出た水が泉となり、その泉が溢れて清流となって流れる辺り」であることから「泉の里」と名づけ、碑を建てた[5]。この土地の名称は現在でも使用されている。なお当時土地の者からは「政友村」「政治村」とも呼ばれていた[5][6]。これらの別荘群は現存していないが、喜三郎の孫である鈴木昭郎は2021年現在軽井沢に定住していると地元紙のインタビューに答えている[7]
栄典
位階


1907年(明治40年)12月10日 - 正五位[8]

1912年(大正元年)12月28日 - 従四位[9]

1921年(大正10年)10月20日 - 従三位[10]

1924年(大正13年)7月10日 - 正三位

1940年(昭和15年)6月24日 - 従二位[11]

勲章等


1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[12]

1916年(大正5年)

1月19日 - 勲二等瑞宝章[13]

4月1日 - 旭日重光章[14]


1919年(大正8年)9月29日 - 勲一等瑞宝章[15]

1921年(大正10年)7月1日 - 第一回国勢調査記念章[16]

1928年(昭和3年)1月20日 - 旭日大綬章[17]

1930年(昭和5年)12月5日 - 帝都復興記念章[18]

1940年(昭和15年)6月24日 - 旭日桐花大綬章[19]

出典・補注[脚注の使い方]^ 『官報』第2350号、大正9年6月3日。
^ 小山俊樹『憲政常道と政党政治 -近代日本二大政党制の構想と挫折-』2012年11月、思文閣出版、P241-242
^ 原田熊雄『西園寺公と政局』。
^141102伊勢原市 国登録有文化財見学会 雨岳文庫
^ a b c 肥田琢司『政界追想』(肥田琢司遺稿刋行会, 1964)9頁
^ 島崎清『軽井沢百年の歩み』(島崎清 , 1978)61頁
^ 【軽井沢人物語】日新化工元専務取締役 エイコウ製菓元社長 鈴木 昭郎 さん 軽井沢ウェブ(2021年10月8日, 軽井沢新聞社)
^ 『官報』第7337号「叙任及辞令」1907年12月11日。
^ 『官報』第126号「叙任及辞令」1912年12月29日。
^ 『官報』第2767号「叙任及辞令」1921年10月21日。
^ 『官報』第4042号「叙任及辞令」1940年6月28日。
^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。


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