1921年(大正10年)10月、三重吉39歳の時に、小泉はま(濱)と再婚する。1928年(昭和3年)、三重吉46歳の時、乗馬による少年の精神教育を主旨とした騎道少年団を設立する。1929年(昭和4年)3月、『赤い鳥』は休刊したが、翌年より復刊準備にかかり、1931年(昭和6年)1月に、『赤い鳥』は復刊した。
1935年(昭和10年)、三重吉53歳の時、山梨県小淵沢にて『綴方読本』の執筆にとりかかる。同年10月頃から、喘息のため病床に臥す。同年12月、『綴方読本』を刊行。
1936年(昭和11年)6月24日、病状が悪化し、東京帝国大学附属病院真鍋内科へ入院。同年6月27日・午前6時30分、肺がんのため死去。53歳没。戒名は天真院啓迪日重居士[5]。同年6月29日、西大久保の自宅で告別式が営まれる。三重吉の死去と共に、『赤い鳥』は同年8月号で終刊した。同年10月、『赤い鳥 鈴木三重吉追悼号』が刊行される。
備考
三重吉が肺がんで亡くなるまで、『赤い鳥』は18年間(計196冊)刊行を続け、最盛期には発行部数3万部を超えたと言われる。しかも学校や地方の村の青年会などで買われたものが回し読みされたという。この間、坪田譲治、新美南吉 [6]ら童話作家、巽聖歌ら童謡作家、成田為三、草川信ら童謡作曲家、清水良雄らの童画家も世に出した。また紙面に児童の投稿欄も設けられ三重吉や白秋、山本鼎が選評にあたり児童尊重の教育運動が高まっていた教育界に大きな反響を起こした。
三重吉の13回忌にあたる1948年(昭和23年)から、「鈴木三重吉賞」が創設され、現在も全国の子供の優秀な作文や詩に賞が贈られている。
古事記を子供にもわかりやすいよう物語風に現代語化して『赤い鳥』に連載した「古事記物語」 [7]の作者としても知られる。
里見クの随筆によると、里見が泉鏡花を、直接の師匠ではないからというので「泉さん」と呼んでいたところ、酒に酔った三重吉から凄い勢いで叱責されたとあり、酒癖の悪い人物だったらしい。また小島政二郎『眼中の人』に、代作の実態や、三重吉の酒癖の悪さは描かれている。一晩に酒一升を平らげるほどの酒豪で、酔うと手が付けられず灰皿が飛び交うような大喧嘩に発展する事もしばしばであった。
「赤い鳥」創刊当時からの仲間であった北原白秋とは、酒の諍いが元で1933年以降絶縁状態になったというのが通説だが、三重吉が永島信吉にあてた手紙によれば、北原白秋が原稿をよく遅刻するのが原因だとする記述が残されている。しかし、絶縁に関する詳細は当時の関係者にも不明であり、様々な憶測が飛び交っているが、行き違いが原因ではないかと言われている。
鈴木家の菩提寺である、広島市・長遠寺の鈴木家の墓に、三重吉の遺骨は納められている。13回忌に伴い、鈴木家の墓のすぐ右隣に、三重吉の墓碑が建立された。墓碑の「三重吉永眠の地 三重吉と濱の墓」の文字は、三重吉自身が生前に書き残したものである ⇒[1]。
脚注[脚注の使い方]^ a b c 『出版年鑑 昭和12年版』東京堂、1937年、p.89
^ 『官報』第7514号、明治41年7月14日、p.378
^ 長編小説。1913年7月25日から11月15日に「国民新聞」に発表。翌年1月、春陽堂刊。
^ 運動の当初の賛同者には泉鏡花、小山内薫、徳田秋声、高浜虚子、野上豊一郎、野上弥生子、小宮豊隆、有島生馬、芥川龍之介、北原白秋、島崎藤村、森?外、森田草平の他数十名、1年後には小川未明、谷崎潤一郎、久米正雄、久保田万太郎、有島武郎、秋田雨雀、西條八十、佐藤春夫、菊池寛、三木露風、山田耕筰、成田為三、近衛秀麿らも加わっている。しかし代作が多く、実際に執筆した作家として井伏鱒二、内田百、宇野浩二、宇野千代、上司小剣、小島政二郎、豊島与志雄、中村星湖、林芙美子、広津和郎、室生犀星らがいた。特に小島の代作が多い。
^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)177頁
^ 「ごんぎつね」は新美南吉が18歳の時の作品であり、このような後世に活躍する若手を発掘した功績は大きい。「ごんぎつね」は投稿記録(全集に所収)らしきノートが残っており、『赤い鳥』掲載のものと比較すると、後者の方が実は教訓的になっている。
^ 田中千晶「鈴木三重吉が見た『古事記』」(日本文学協会「日本文学」2007年2月号)は「大正九年の発刊以来、昭和、平成を通じて数度にわたり刊行、増刷(中略)、長期間にわたって販売されつづけた作品」「口語訳として児童にも大人にも広範囲に受容された著名な作品である。」としている。
著書
千代紙 俳書堂 1907
女と赤い鳥 春陽堂 1911
おみつさん 春陽堂 1912
返らぬ日 春陽堂 1912
小鳥乃巣 春陽堂 1912 「小鳥の巣」岩波文庫
櫛 春陽堂 1913
女鳩 浜口書店 1913
桐の雨 浜口書店 1913
桑の実 春陽堂 1914 のち岩波文庫、新潮文庫、角川文庫
朝顔 植竹書院 1914
赤い鳥 春陽堂 1915
懺悔 ゴリキイ(訳)博文館 1915
三重吉全作集 全13編 春陽堂 1915-1916
古事記物語 赤い鳥社 1920(赤い鳥の本) のち角川文庫
救護隊 赤い鳥社 1921(赤い鳥の本)
アンデルセン童話集 (訳)アルス、1927
日本建国物語 アルス 1930
現代日本文学全集 第42篇 鈴木三重吉集・森田草平集 改造社 1930
千鳥 岩波文庫、1935 のち新潮文庫、角川文庫
綴方読本(編)中央公論社、1935 のち角川文庫、講談社学術文庫
鈴木三重吉全集 全6巻 岩波書店、1938
三重吉童話読本 全10巻 明日香書房 1948-1949
鈴木三重吉童話全集 全9巻別巻1 文泉堂書店 1975
鈴木三重吉全集 全6巻別巻1 岩波書店 1982
関連項目
赤い鳥
綴方教室
外部リンクウィキメディア・コモンズには、鈴木三重吉に関連するカテゴリがあります。
鈴木 三重吉:作家別作品リスト - 青空文庫
「鈴木三重吉生誕の地」の碑 - ウェイバックマシン(2008年11月18日アーカイブ分)
鈴木三重吉文学碑 - ウェイバックマシン(2004年6月25日アーカイブ分) - 原爆ドーム西側に設置。碑銘は「私は永久に夢を持つ / ただ年少時のごとく / ために悩むこと浅きのみ」。
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