釜石鉱山田中製鉄所
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^ 香村を補佐して実際の作業をしたのは盛岡出身で下斗米秀之進の孫・下斗米小六郎、そして品川硝子製作所の解散後に招かれた中島宜[12]。中島は明治20年に品川硝子の工長としてドイツ留学した人物で、後に西村勝三の下で日本皮革日本製靴、そして品川白煉瓦の技術顧問となって耐火煉瓦の開発にも力を尽くした[13][14][15]
^ 帆船・長安丸(123t)[17]は1894年に中古で購入。同年12月に八戸沖で沈没したのはこの船と推定される。1902年新造の第壱長安丸(172t)[18]のように横山久太郎名義の船もあった。名称は長兵衛の"長"と安太郎の"安"から取ったと思われる。
^ 1872年生、東京帝大工科大学採鉱冶金科卒[23]。中大路は田中時代の技術的な記録をまとめた原稿を書いていたが、関東大震災で惜しくも焼失している[7]
^ 所長・横山久太郎、技師長・中大路氏道、栗橋分工場監督・高橋亦助、製鋼課長・藤田俊三、製銑課長・直井武好、製銅課長・岡田権四郎、採鉱課長・徳田孝茂[24]
^ 所長・小松仁三郎、鉱務部長・安間留五郎、経理部長・石神球一郎、採鉱課長・美座菊千代、製錬課長・番場恒夫[24]
^ 1919年(大正8年)7月に役員変更あり。取締役社長・田中長兵衛、専務取締役・田中長一郎、取締役の香村小録と中大路氏道は変わらず、吉田長三郎が取締役となり、監査役には横山金治と野村三四郎の名が新たに並んだ[26]
^ 当時三鬼はまだ入社2年目だったが、入社早々に小笠原諸島の件を上手く整理、台湾金瓜石の件でも手腕を発揮(田中長一郎の項参照)し長兵衛を大いに喜ばせている。帝大法学科卒でもあり、初めての労働争議で対応に苦慮した本店から調停を任されるだけの実績は既にあったと言える。
^ 中田は横山虎雄より9つ年上。同じ東京帝大だが中田は冶金科卒のいわゆる専門家であり、1909年から釜石で経験を積んでいた。また中田の妻は虎雄の妻の実姉(どちらも初代長兵衛の孫)である。高炉の鬼と呼ばれるほど厳しい人物で、この時期の実権は中田にあったと言われる
^ 「先祖代々の墓・田中」の墓碑を中央に、左に「釜石鉱山員中」、右に「金瓜石鉱山員中」と彫られた1901年建立の石灯篭があり、それらに向かって右側にひと回り大きな万霊塔が建てられている[32]

出典^ 富士 1955, p. 21.
^ 千夜 1984, p. 49.
^ 富士 1955, p. 23-25.
^ 『鉄鋼界 26(6)』 p.39 日本鉄鋼連盟、1976年6月
^ 三枝 1954, p. 27.
^ 夜話続 1957, p. 236-237.
^ a b 村井 1955, p. 7.
^ 富士 1955, p. 46.
^ 富士 1955, p. 48-49.
^ 富士 1955, p. 467.
^ 『近代東北庶民の記録 上』 p.230 NHK仙台制作グループ、1973年
^ 香村小録『香村小録自傳日記』1939年、16頁。
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