1928年(昭和3年)に入り、フランスが金解禁を行うと主要国でこれを行っていないのは日本のみとなり、内外からの批判を浴びた。また、為替相場の不安定ぶりに悩まされた金融界と貿易関係の業界からは、金解禁を行って為替相場を安定させることを望む声が上がり、10月22日東京・大阪の両手形交換所と東京商工会議所からは「金解禁即時断行決議」が政府に対して突きつけられた。さらに、1930年(昭和5年)に設立される国際決済銀行の出資国・国際連盟財政委員会構成国の要件に、金解禁の実施が盛り込まれたことにより、当時「五大国」と呼ばれた日本の威信にも関わる事態となった。当時の田中義一内閣の大蔵大臣三土忠造は、こうした状況から金解禁はいずれは避けられないと考えて、財務官津島寿一を欧米諸国に派遣した。金解禁に備えてクレジットの設定を依頼するためであった[注 1]。これは次の契約内容で無事に設定された[3]。総額:アメリカ2500万ドル、イギリス500万ポンド契約当事者:日本側;横浜正金銀行(政府・日銀が支払い保証)米国側;モルガン商会、クーン・レーブ、ナショナル・シティー銀行、ファースト・ナショナル銀行英国側;ナショナル・ウエストミンスター銀行、ロスチャイルド、香港上海銀行など契約期間:金解禁省令公布(昭和4年11月21日付で井上準之助が交付した)の日より1年間
もっとも問題は、仮に金解禁を実施するとしても、その価値をいくらにするかであった。第一次世界大戦前の日本では、金2分(1/5匁・0.75g)を1円相当(前述の通り、1ドル=2.005円)としていた。しかし、金輸出が禁じられてから10年以上を経て、内外の経済状況は大きく変化しており、実際の為替相場は、関東大震災時1923年(大正12年)の100円=38ドル前後(1ドル=2.630円前後)を最安値として、1928年(昭和3年)当時には100円=44ドル前後(1ドル=2.300円前後)となっていた。このため、金解禁時の平価の価値基準を禁止前の平価(旧平価、1ドル=2.005円)のまま解禁するのか、それとも実体経済に合わせた平価にするために通貨価値を落とす(平価切下げ)のかが問題となった。
先のジェノア会議でも、平価をどうするのかが問題とされた。旧平価のままでの金解禁は、世界的に低調気味であった為替相場を異常に高騰させて輸出を不振に追い込み、国内には安い輸入品が入ってデフレーションが発生することは明らかであった。そのため、会議の決議には、金解禁を行う際に平価を見直すことが含まれていた。実際に、会議当時未解禁で会議後に金解禁を行った国々は、ほとんどが実態に合わせた平価切下げを実施していた。また、鉄鋼業などの重工業関係者の間には、デフレーションと外国製品の輸入価格の下落を恐れて、金解禁に反対する意見も上がっていた。
これに対して『東洋経済新報』の石橋湛山は高橋亀吉にグスタフ・カッセルの購買力平価説で説得され、金解禁自体には賛成するが、こうした危惧を払拭するために平価切下げを行った上で金解禁を行うべきであるとする「新平価解禁論」を唱えた。これには小汀利得・山崎靖純
らが続いた[注 2]。一方、大蔵省の津島財務官も、現状では平価切下げによる金解禁が妥当であると報告した。ところが、7月2日、田中義一内閣は、いわゆる「満州某重大事件」(張作霖爆殺事件)によって、金解禁を実施することなく崩壊した。1929年(昭和4年)7月、新しく成立したのは濱口雄幸を首班とする立憲民政党の濱口内閣である。