金羊毛騎士団
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16世紀にかけてハプスブルク家の勢力拡大により、権威が増大していった[2]

ハプスブルク家は、スペインとオーストリアに分かれ、1700年にカルロス2世が崩御してスペイン・ハプスブルク家が断絶する。スペイン継承戦争を経て、王朝がブルボン朝に代わったため、騎士団もまたスペインオーストリアに分かれた[3]

スペインとオーストリアで、勲章の形が異なる。スペインは君主制廃止と王政復古を繰り返しつつ、今日も同国最高位の勲章として存続している。一方、オーストリアは第1次世界大戦後のオーストリア革命により帝政が廃止され、金羊毛騎士団の地位や勲章は政府や君主公認ではなくなった。しかし、最後の皇帝カール1世の子孫が引き続き主権者を務め、カトリック諸国での権威を保っている[3]
標語と意匠

モットーは「Pretium Laborum Non Vile」(我らの働きに報償に値しないものはない)。

名称はギリシア神話イアソンの物語(金羊毛)と、旧約聖書士師記ギデオンの物語に由来している[4][5]。これはフィリップ善良公が、十字軍を想定していたからである[1]。当初はイアソンのみだったが、ギリシャ神話、すなわち、カトリック教会から見て異教を由来にしていることが好ましくないとされ、後からギデオンの物語が理由づけされた[6]

なお「金羊毛皮」は錬金術の達人の象徴でもある。ただし、善良公が何故、金羊毛を意匠に定めたかは、騎士団規約にも記載がない[注釈 1][8]

衣装は、銀鼠色の縁取りが施された膝丈の真紅のローブに、同じく真紅のマントであり、マントには火口金と火打石の文様が施された[9]。この意匠はフィリップ善良公がジャン無怖公(サン・プール)より継承したもので、敵対するオルレアン家の紋章である棍棒を削り、さらに燃やすという標語に由来する[10]
騎士団規約と集会

騎士団規約は、1431年11月30日の第1回騎士団集会に先立つ11月27日に公表された。当初は全103条から成り、騎士団の構成や、団員の義務をはじめ組織の運営に必要な事項が示されている[11]。これは紙の本として、団員に配布された[11]。1446年に発布された新規約は、特に大きな改定がなされている[11]。全94条になり、66条の団員・団長の規定と28条の役職者の規定の二部構成になった[11]

金羊毛騎士団の旧規約と、同時代のガーター騎士団の規約を比較すると、組織の枠組み等に類似点が見られる[12]。一方、相互扶助や総会、団員選出等については、独自性が見られる[12]

騎士団規約に基づき、聖アンデレの祝日である11月30日に団長が指名する都市で、『騎士団集会(総会)』(chapitre)が開かれる[4]。後に、3年毎5月2日に変更された[4]。宗教行事を中心に、騎士団の査問、裁判、新団員選出が1週間から1か月にわたって行われ、ブルゴーニュ公国の壮大華麗な儀式の一つとなった[4]。集会は公国の他の催し事と並行して開かれることもしばしばで、その華麗さは欧州諸侯の羨望の的であったという[13]
歴史
創設の背景
国内情勢

1424年ブルゴーニュ公国の若き君主フィリップ善良公は、エノー、ホラント、ゼーラントの3伯領を巡り、カンブレー二重結婚を根拠として継承を主張した。その結果、ジャクリーヌ・ド・エノー及びその夫グロスター公ハンフリーと抗争が起こる。1428年にフィリップによる継承が承認され、1432年にジャクリーヌが地位と領土を放棄した。

ブルゴーニュ公国は政治的な対立を内包し集権力は弱かったため[14]、騎士団の設立は、ブルゴーニュ及び周辺諸国の諸侯を儀礼体系に組み込む、外交的な意図があったとも指摘されている[15]
国外情勢とガーター勲章

百年戦争では、ブルゴーニュ公国はイングランドと組み、ブルゴーニュ派と王太子を擁するアルマニャック派とで対立していた。善良公の姉妹も、ヘンリー6世の叔父に嫁ぎ、善良公もイングランドと姻戚関係にあるポルトガル王女イザベル[注釈 2]と再再婚する。しかし前節の経緯から、イングランドとの関係も円満ではなく、1429年にジャンヌ・ダルクが登場して戦局が急変すると、1431年にブルゴーニュはフランスと休戦する。

百年戦争の最初期、1348年(または1344年)にイングランドではガーター騎士団が結成された。『アーサー王伝説』に由来し、対仏戦争の士気を高揚させる目的があった[16]。同勲章は1400年に初めて外国人に授与され[17]、外交上の意義を持つようになる。1422年にはフィリップ善良公へも授与が打診されたが辞退している[18][19]

他方、東欧情勢では、オスマン帝国(トルコ)がオスマン・東ローマ戦争の渦中であり、メフメト1世(在位:1413年 - 1421年)とムラト2世(在位:1421年 - 1444年)によって再統一され、再び国力を増していた。
黎明期イザベルフィリップ善良公(ヘント市立美術館収蔵)

1430年1月10日、フィリップ善良公とポルトガル王女イザベルとの婚礼の祝宴の中で、創設が発表された[13][20]

創設前後の記録は、紋章院長官であるジャン・ルフェーブル・ド・サン=レミ(英語版)の『年代記』に詳細に残されている[14]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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