金羊毛騎士団
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衣装は、銀鼠色の縁取りが施された膝丈の真紅のローブに、同じく真紅のマントであり、マントには火口金と火打石の文様が施された[9]。この意匠はフィリップ善良公がジャン無怖公(サン・プール)より継承したもので、敵対するオルレアン家の紋章である棍棒を削り、さらに燃やすという標語に由来する[10]
騎士団規約と集会

騎士団規約は、1431年11月30日の第1回騎士団集会に先立つ11月27日に公表された。当初は全103条から成り、騎士団の構成や、団員の義務をはじめ組織の運営に必要な事項が示されている[11]。これは紙の本として、団員に配布された[11]。1446年に発布された新規約は、特に大きな改定がなされている[11]。全94条になり、66条の団員・団長の規定と28条の役職者の規定の二部構成になった[11]

金羊毛騎士団の旧規約と、同時代のガーター騎士団の規約を比較すると、組織の枠組み等に類似点が見られる[12]。一方、相互扶助や総会、団員選出等については、独自性が見られる[12]

騎士団規約に基づき、聖アンデレの祝日である11月30日に団長が指名する都市で、『騎士団集会(総会)』(chapitre)が開かれる[4]。後に、3年毎5月2日に変更された[4]。宗教行事を中心に、騎士団の査問、裁判、新団員選出が1週間から1か月にわたって行われ、ブルゴーニュ公国の壮大華麗な儀式の一つとなった[4]。集会は公国の他の催し事と並行して開かれることもしばしばで、その華麗さは欧州諸侯の羨望の的であったという[13]
歴史
創設の背景
国内情勢

1424年ブルゴーニュ公国の若き君主フィリップ善良公は、エノー、ホラント、ゼーラントの3伯領を巡り、カンブレー二重結婚を根拠として継承を主張した。その結果、ジャクリーヌ・ド・エノー及びその夫グロスター公ハンフリーと抗争が起こる。1428年にフィリップによる継承が承認され、1432年にジャクリーヌが地位と領土を放棄した。

ブルゴーニュ公国は政治的な対立を内包し集権力は弱かったため[14]、騎士団の設立は、ブルゴーニュ及び周辺諸国の諸侯を儀礼体系に組み込む、外交的な意図があったとも指摘されている[15]
国外情勢とガーター勲章

百年戦争では、ブルゴーニュ公国はイングランドと組み、ブルゴーニュ派と王太子を擁するアルマニャック派とで対立していた。善良公の姉妹も、ヘンリー6世の叔父に嫁ぎ、善良公もイングランドと姻戚関係にあるポルトガル王女イザベル[注釈 2]と再再婚する。しかし前節の経緯から、イングランドとの関係も円満ではなく、1429年にジャンヌ・ダルクが登場して戦局が急変すると、1431年にブルゴーニュはフランスと休戦する。

百年戦争の最初期、1348年(または1344年)にイングランドではガーター騎士団が結成された。『アーサー王伝説』に由来し、対仏戦争の士気を高揚させる目的があった[16]。同勲章は1400年に初めて外国人に授与され[17]、外交上の意義を持つようになる。1422年にはフィリップ善良公へも授与が打診されたが辞退している[18][19]

他方、東欧情勢では、オスマン帝国(トルコ)がオスマン・東ローマ戦争の渦中であり、メフメト1世(在位:1413年 - 1421年)とムラト2世(在位:1421年 - 1444年)によって再統一され、再び国力を増していた。
黎明期イザベルフィリップ善良公(ヘント市立美術館収蔵)

1430年1月10日、フィリップ善良公とポルトガル王女イザベルとの婚礼の祝宴の中で、創設が発表された[13][20]

創設前後の記録は、紋章院長官であるジャン・ルフェーブル・ド・サン=レミ(英語版)の『年代記』に詳細に残されている[14]。創設目的のひとつに「キリスト教信仰の擁護」が掲げられ、フィリップ善良公の構想に十字軍があったことを示している[21]。また、ガーター騎士団への対抗意識から構成されたことも指摘されている[19][22]

第1回集会は、聖アンデレの祝日である1431年11月30日に、リール(現・フランス)で開催された[13][23]。集会直前の11月27日に公表された騎士団規約で、団員数は団長であるブルゴーニュ公1名と騎士30名の、計31名と定められ、第1回集会までに25名が選出された[13][9]

1443年11月30日、ディジョンで第3回集会が開催された[24]。直前の11月10日に誕生した、フィリップ善良公の嫡男シャルルの騎士団参加を容易にするため、この時に定員を25名(主権者と団員24名)から31名としたとする説もある[25]

後、百年戦争におけるアジャンクールの戦い(1415年)以来捕虜となっていたオルレアン公シャルルについて、フィリップ善良公がその解放に尽力した縁で、オルレアン公シャルルとマリー・ド・クレーヴの結婚を成立させた[26]。二人の結婚式の直後、1440年11月30日に開催された、第6回目の集会でオルレアン公シャルルは38番目の騎士となった[27]

オスマン帝国の脅威が迫るにつれ、1451年の騎士団集会ではシャロン大司教ジャン・ジェルマン(Jean Germain)が十字軍結成の熱烈な演説を行った[28]


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