1443年11月30日、ディジョンで第3回集会が開催された[24]。直前の11月10日に誕生した、フィリップ善良公の嫡男シャルルの騎士団参加を容易にするため、この時に定員を25名(主権者と団員24名)から31名としたとする説もある[25]。
後、百年戦争におけるアジャンクールの戦い(1415年)以来捕虜となっていたオルレアン公シャルルについて、フィリップ善良公がその解放に尽力した縁で、オルレアン公シャルルとマリー・ド・クレーヴの結婚を成立させた[26]。二人の結婚式の直後、1440年11月30日に開催された、第6回目の集会でオルレアン公シャルルは38番目の騎士となった[27]。
オスマン帝国の脅威が迫るにつれ、1451年の騎士団集会ではシャロン大司教ジャン・ジェルマン(Jean Germain)が十字軍結成の熱烈な演説を行った[28]。1453年のコンスタンティノープル陥落による東ローマ帝国滅亡を受け、フィリップ善良公は1454年に十字軍集会を開催し、参列者に十字軍宣誓(雉の宣誓)を行わせた[29]。これは、ブルゴーニュ宮廷で行われた最も華麗な宴会として記録されている[30]。食事などその場で消費される経費だけでなく、出席者の衣装までもが善良公による支出だった[31]。ただし、余興の出演者の呼びかけで善良公以下が次々に行う演出がかった宣誓は、あらかじめ「不可抗力により実行不可能」になることも想定されているものだった[32]。
1456年、ローマ教皇カリストゥス3世が十字軍結成を欧州諸侯に呼びかけると、フィリップ善良公は遠征計画を作成し、同年6月、金羊毛騎士団の第9回集会で、フランス国王に対し十字軍宣誓に応じ、遠征を行うよう要請した[33][34]。また、この第9回集会では、かつての十字軍国家であるアンティオキア公国の名目上の君主ジョアン・デ・コインブラが騎士団員となった[35]。ただし、この十字軍は、西ヨーロッパ情勢や善良公自身の健康問題から、実現しなかった[1][36]。
1467年6月、フィリップ善良公が逝去し、シャルル突進公(ル・テメレール)が団長となる。シャルル突進公は1468年4月末から5月に開催された第19回騎士団会議で、政敵であるクロワ一族3名を大逆罪で告発する[37]。君主として司法裁判にかけ死刑とすることも可能だったが、騎士団としては名誉のみを扱うとし、彼らは領外追放となった[38]。
1468年、イングランド王国は薔薇戦争でブルゴーニュの支援を受けるため[注釈 3]、イングランド王エドワード4世の妹、マーガレットとシャルル突進公が結婚した。この際にエドワード4世とシャルルは、ガーター勲章と金羊毛勲章を互いに授与しており、創設40年未満ですでに金羊毛騎士団が国際的な重要性を帯びるようになっていた[39]。
1477年にシャルル突進公が戦死し、一人娘のマリーがハプスブルク家のマクシミリアンと結婚した[7]。それに伴い、公位もハプスブルク家に継承され、騎士団規約に基づきマクシミリアンが主権者となった[40]。ハプスブルク家は16世紀に飛躍的に勢力を伸ばし、それに伴って金羊毛騎士団の地位も上昇した[7]。当初31名とされていた定員は、領土の拡大に伴い神聖ローマ皇帝カール5世により51名に増員。その後も増員されている。
スペイン、オーストリアの分裂神聖ローマ皇帝カール6世
カール5世は、スペイン及びネーデルラントを長男フェリペ2世に、オーストリア、ハンガリー及びボヘミアを弟フェルディナント1世に継承させたため、ハプスブルク家はオーストリア本家とスペイン系(アブスブルゴ家)の2系統に分かれた。ブルゴーニュ公位並びに金羊毛騎士団の地位もフェリペ2世が受け継いだ。フェリペ2世は、ローマ教皇グレゴリウス13世の許可を得て、騎士団集会での選出以外に、騎士団長のみの叙任ができるようにした[41]。
その後、近親婚も原因で、カルロス2世は先天的に虚弱であり、スペイン・ハプスブルク家は断絶する。この際、カルロスの異母姉でフランス王妃マリー・テレーズの孫であるアンジュー公フィリップが後継者指名を受けていたが、神聖ローマ皇帝レオポルト1世は末子のカール大公(後、神聖ローマ皇帝カール6世)を推したためスペイン継承戦争が勃発した。最終的に、フィリップが『フェリペ5世』となることで決着し、今日まで続くスペイン・ブルボン家(ボルボン家)が興る。一方、ネーデルラントとブルゴーニュ公位はオーストリア領ネーデルラントとして、オーストリア側に移った。
その結果、18世紀初頭以降、スペイン及びオーストリアの双方から叙任(授与)される騎士団勲章となった[7][3]。分裂後、騎士団勲章をオーストリアに定着させた点において、オーストリア金羊毛騎士団の初代主権者となったカール6世を第2の創設者と評価する見方もある[42]。