金羊毛騎士団
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その結果、ジャクリーヌ・ド・エノー及びその夫グロスター公ハンフリーと抗争が起こる。1428年にフィリップによる継承が承認され、1432年にジャクリーヌが地位と領土を放棄した。

ブルゴーニュ公国は政治的な対立を内包し集権力は弱かったため[14]、騎士団の設立は、ブルゴーニュ及び周辺諸国の諸侯を儀礼体系に組み込む、外交的な意図があったとも指摘されている[15]
国外情勢とガーター勲章

百年戦争では、ブルゴーニュ公国はイングランドと組み、ブルゴーニュ派と王太子を擁するアルマニャック派とで対立していた。善良公の姉妹も、ヘンリー6世の叔父に嫁ぎ、善良公もイングランドと姻戚関係にあるポルトガル王女イザベル[注釈 2]と再再婚する。しかし前節の経緯から、イングランドとの関係も円満ではなく、1429年にジャンヌ・ダルクが登場して戦局が急変すると、1431年にブルゴーニュはフランスと休戦する。

百年戦争の最初期、1348年(または1344年)にイングランドではガーター騎士団が結成された。『アーサー王伝説』に由来し、対仏戦争の士気を高揚させる目的があった[16]。同勲章は1400年に初めて外国人に授与され[17]、外交上の意義を持つようになる。1422年にはフィリップ善良公へも授与が打診されたが辞退している[18][19]

他方、東欧情勢では、オスマン帝国(トルコ)がオスマン・東ローマ戦争の渦中であり、メフメト1世(在位:1413年 - 1421年)とムラト2世(在位:1421年 - 1444年)によって再統一され、再び国力を増していた。
黎明期イザベルフィリップ善良公(ヘント市立美術館収蔵)

1430年1月10日、フィリップ善良公とポルトガル王女イザベルとの婚礼の祝宴の中で、創設が発表された[13][20]

創設前後の記録は、紋章院長官であるジャン・ルフェーブル・ド・サン=レミ(英語版)の『年代記』に詳細に残されている[14]。創設目的のひとつに「キリスト教信仰の擁護」が掲げられ、フィリップ善良公の構想に十字軍があったことを示している[21]。また、ガーター騎士団への対抗意識から構成されたことも指摘されている[19][22]

第1回集会は、聖アンデレの祝日である1431年11月30日に、リール(現・フランス)で開催された[13][23]。集会直前の11月27日に公表された騎士団規約で、団員数は団長であるブルゴーニュ公1名と騎士30名の、計31名と定められ、第1回集会までに25名が選出された[13][9]

1443年11月30日、ディジョンで第3回集会が開催された[24]。直前の11月10日に誕生した、フィリップ善良公の嫡男シャルルの騎士団参加を容易にするため、この時に定員を25名(主権者と団員24名)から31名としたとする説もある[25]

後、百年戦争におけるアジャンクールの戦い(1415年)以来捕虜となっていたオルレアン公シャルルについて、フィリップ善良公がその解放に尽力した縁で、オルレアン公シャルルとマリー・ド・クレーヴの結婚を成立させた[26]。二人の結婚式の直後、1440年11月30日に開催された、第6回目の集会でオルレアン公シャルルは38番目の騎士となった[27]

オスマン帝国の脅威が迫るにつれ、1451年の騎士団集会ではシャロン大司教ジャン・ジェルマン(Jean Germain)が十字軍結成の熱烈な演説を行った[28]1453年コンスタンティノープル陥落による東ローマ帝国滅亡を受け、フィリップ善良公は1454年に十字軍集会を開催し、参列者に十字軍宣誓(雉の宣誓)を行わせた[29]。これは、ブルゴーニュ宮廷で行われた最も華麗な宴会として記録されている[30]。食事などその場で消費される経費だけでなく、出席者の衣装までもが善良公による支出だった[31]。ただし、余興の出演者の呼びかけで善良公以下が次々に行う演出がかった宣誓は、あらかじめ「不可抗力により実行不可能」になることも想定されているものだった[32]

1456年ローマ教皇カリストゥス3世が十字軍結成を欧州諸侯に呼びかけると、フィリップ善良公は遠征計画を作成し、同年6月、金羊毛騎士団の第9回集会で、フランス国王に対し十字軍宣誓に応じ、遠征を行うよう要請した[33][34]。また、この第9回集会では、かつての十字軍国家であるアンティオキア公国の名目上の君主ジョアン・デ・コインブラが騎士団員となった[35]。ただし、この十字軍は、西ヨーロッパ情勢や善良公自身の健康問題から、実現しなかった[1][36]

1467年6月、フィリップ善良公が逝去し、シャルル突進公(ル・テメレール)が団長となる。シャルル突進公は1468年4月末から5月に開催された第19回騎士団会議で、政敵であるクロワ一族3名を大逆罪で告発する[37]。君主として司法裁判にかけ死刑とすることも可能だったが、騎士団としては名誉のみを扱うとし、彼らは領外追放となった[38]

1468年、イングランド王国薔薇戦争でブルゴーニュの支援を受けるため[注釈 3]、イングランド王エドワード4世の妹、マーガレットとシャルル突進公が結婚した。


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