金石昭人
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1996年は前年から台頭してきた島崎毅とのダブルストッパーを形成し、終盤のブルペンを支えるなどチームの2位に大きく貢献した。しかし8月末の登板を最後にこの年は終わった。

1997年は島崎を抑えに専念させるチーム方針から、先発再転向に挑戦するもキャンプではスロー調整で紅白戦未登板、オープン戦でも結果が残せないままシーズンに入り初登板初先発では滅多打ちに合い二軍落ち、後半戦にリリーフで復帰も思うような結果が残せずに登板数が激減。移籍後ワーストの成績で14年ぶりの未勝利に終わった。同年10月3日に戦力外通告を受けて自由契約選手となり[17]、叔父の正一には「福岡ダイエーホークスに入団した方がまだプロで生き残れるからダイエーに行け」と言われたが、金石は「私は金田家の人間じゃなく、金石家の人間です。自由にさせてくれ」と言って1998年2月に巨人の春季キャンプへ参加。同月26日にテストに合格し[18]、翌27日に入団が発表され、背番号「19」、推定年俸5000万円で契約[19]

1998年、4月3日のヤクルトとの開幕戦(明治神宮野球場)で9回裏二死で高校の後輩でもある7歳下の先発・桑田真澄をリリーフし、辻発彦から奪三振で移籍後初セーブを挙げる[20]。同月5日の同じく対ヤクルト戦(明治神宮野球場)で2セーブ目を挙げた[21]が、これが自身最後のセーブとなった。同年にオリックス・ブルーウェーブから移籍してきた野村貴仁と共に抑えの切り札として期待されたが、かつての輝きは取り戻せず次第に打ち込まれた。同月18日の対阪神戦(東京ドーム)では9回に安打と四球で降板し、その後に登板した野村も打たれて移籍後初敗戦[22]。5月6日の対横浜ベイスターズ戦(東京ドーム)で、巨人が6対4と2点リードした8回表二死二塁の場面で野村に代わり抑えとして登板したが、この回は抑えたものの9回表一死から二塁打と四球を暴投で二塁走者が三塁進み、進藤達哉に逆転3点本塁打を打たれて巨人は6対7で敗れる[23]。この試合を境に登板が激減し、主に中継ぎとして13試合に登板するも2敗2セーブと勝ち星をあげることはできず、同年10月1日に現役引退を表明[24]。同月3日に行われた広島との最終戦(東京ドーム)で、PLの後輩・吉村禎章や広島時代からの同僚・川口和久と共に引退セレモニーが実施され[25]、背番号19の後任となった上原浩治とも親交が深い。
引退後

1999年からテレビ東京野球解説者となる。

2000年に元バドミントン選手でキャスターの陣内貴美子と結婚。婚姻届の提出日は金石たっての希望で、早世した実母の命日である8月26日とした。結婚式司会は現役時代から親交のあるフジテレビアナウンサーで、両名とも大のカープファンである福井謙二西山喜久恵が担当した。陣内と婚約している時にたまたま陣内宅に押し入った強盗と遭遇し、包丁をもっていた強盗に対し、素手で立ち向かい、陣内と2人で取り押さえ、話題になった。

2004年には日本ハムの北海道移転に伴い北海道放送解説者に就任。

2005年から2011年までスカイ・A2012年からはJ SPORTSの解説も務めている。

2014年からはテレビ新広島の解説も担当し、さらに解説業の傍らで東京都品川区の『寿司 かねいし』と港区に二店舗、広島風お好み焼き・鉄板焼き店『かねいし』も経営している[26][27]
詳細情報
年度別投手成績




















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1982広島20000000------122.250000200226.751.88
1983101000000------5912.21912006111096.391.66
19852318601690--.400483110.2114124504511066625.041.44
198626255221260--.667638158.01371339241053054472.681.11
19871413301550--.50034985.08371841561129242.541.19
198864000220--.50011627.2281811262011103.251.30
19891711110710--.87533782.27722101472026222.401.19


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