金田が打者として一番凄いと思った投手は大洋ホエールズの左腕権藤正利で「彼のカーブは凄かった」と語っている。
通算登板数は944試合であるが、代打での出場なども全て合わせると通算1053試合に出場している。なお、1962年8月21日の対巨人戦(後楽園)において、一度だけ代打として登場後に一塁を守ったことがある(代打から投手は何度かある)。 国鉄時代はその豪快な人柄と圧倒的な実力のため、監督以上に力のある選手だった。国鉄が球団創立となった年にシーズン途中入団して、球団名消滅(厳密には巨人への移籍元年に消滅)と共に去ったが、在籍した15年間のうち、開幕投手を実に10度も務めている。これは国鉄では最多回数で、開幕投手を複数回務めているのは金田だけである。先発して大量点を取られたり、審判の判定に不服だと自分から勝手にマウンドを降りてしまったりすることもあった。別所毅彦は現役時代の金田について「監督を監督していたのはあいつぐらいのものだ」と語っていた。守備でも味方がエラーをするとグラブを叩きつけて罵倒したという。 現役時代から傍若無人で、監督が交代を告げる前に降板したことはおろか、監督が交代を告げる前にマウンドにのぼったこともあった[72]。当時捕手の根来広光は、「金田さんは機嫌を乱すと本当に荒れた、しかし彼ががんばらなければチームはどうしようもないので機嫌を直すのにとても苦労した」とインタビューで振り返っている。球場についても文句を言い、狭いことで有名な東京球場での対巨人戦に先発して本塁打を連発された際は「こんな狭い球場で投げれるか!」と叫んだことがある。のちにロッテ監督に就任した際も「あんな狭い球場いらんわい」と発言し、東京球場の閉鎖→取り壊しにつながっている。 国鉄時代同僚だった佐々木重徳によると「国鉄に入ってみたら金田さんは大エースで、歴史的に伝えられている通り、金田さんのワンマンチームでした」、「ある年(1960年)金田さんが「10年連続20勝」まであと1勝というゲームでその試合は4年目の島谷勇雄という投手が先発し、リードしたまま5回途中まで投げたところで金田さんが『わしが行く』とベンチを出て『ピッチャー金田』と自分で審判に告げて、マウンドに向かい、その試合で金田さんは勝ち投手になり10年連続20勝を達成しました。その時点でプロ未勝利だった島谷は通算0勝で引退したのですから、皮肉なものでした。今となってはいい思い出として、島谷も笑っていますけどね。とにかく金田さんは勝つための執念はすごかった。でもそれだけの実力を持った人でした。いろいろ批判はあるだろうけど、一番努力した人だと思いますね。僕らとは全然違い、誰にもできない練習量を一人でこなしていました。ワンマンだからと言って、チームメートから孤立しているとか、そういうことはなかったです。かわいがってくれましたよ」と語っている。 ただし、9月30日の中日戦で起こったこの一件は島谷がこの5回に無死三塁のピンチを招いたタイミングで起こって居たことや、宇野光雄監督が「金田の20勝はこの試合でなくてもできると思っていた。島谷が調子がよかったからなおさらその気はなかったが、五回根来捕手に聞いたところいまは調子がよいが完投はむずかしい。六、七回ごろにくずれそうだというので思い切って代えた」、金田も「私が五回にとった態度は悪かったと反省している」と試合後にコメントしており、宇野が金田へのスイッチを審判に告げる前に金田が居ても立っても居られずに飛び出していったのが真相である[73]。 なお、島谷との一件[74] の少し前には、1960年シーズンに18勝で肩を並べていた国鉄第二の主戦投手である村田元一に対して、金田は「どうしても先に20勝させてほしい」と懇願したとされており、金田の執念を察しながらも納得の出来ない村田は翌日自ら二軍落ちを申し出て、シーズンの残り1ヶ月をそのまま二軍で棒に振ってしまったという「事件」をも引き起こしており[75]、監督の宇野光雄はこうした金田の姿勢と感情的に対立し[76]、同年限りで国鉄監督を退任して大毎オリオンズ監督へと転身していった。 佐々木がある試合でエラーした時、金田がグラブをマウンドに叩きつけたので佐々木もマウンドにグラブを叩きつけて、「お前一人で野球をやってるんじゃないんだよ!」と言い返したところ、金田に「試合が終わったら待ってろ」と言われる。佐々木は金田に殴られるのかと思いつつも、試合後に金田が「付いて来い!」というので、恐る恐る付いていった。すると金田は食事をご馳走してくれて、自宅にも泊めてくれた。それ以来、佐々木は金田の事を「エース」と呼んでおり、そう呼ばないと金田は返事をしてくれなかったという。 大卒のサラリーマンの初任給で1万いかない時代で佐々木は2年目の月給が8万で、金田は100万貰っていた。佐々木の年収より金田の月給の方が多く、今の感覚なら金田の年俸は10億ぐらいの価値があるという[77]。 金田の国鉄時代の後輩に対する面倒見の良さについては、佐々木以外にも田所善治郎が証言を残しており、1953年に田所が国鉄に入団した時、金田は直球とドロップしか持ち球が無かった田所に、シュートやスライダーなど自身の持つ変化球の握りを全て教えてくれたという。田所は金田を評して「自身にとっては野球の先生であった。怖いというイメージがあるが、実際は後輩にはとても優しく、キャンプでも部屋に自ら飲料水を用意する程、自己の体調管理には気を遣っていた。」と述懐していた[78]。 スポーツ医学などが発達していなかった当時、自身の経験と知識を元に体作りに関する独自の思想をまとめ上げていたことは有名であり[79]、金田本人にとっても、その後のスポーツ医学の先駆者になっていることは誇りであったという。 金田はコンディション、特に左腕の状態を維持するために普段の生活から極めて細やかな神経を配っていた。そして、肩が冷えることを極端に嫌っていた[80]。以下はその例である。
存在感
トレーニング法・コンディショニング理論
コンディション管理
就寝時には利き腕の肘を守るためにサポーターを着けて、冷えたりしないよう万全のケアをしてから寝床に入った[80]。
自家用車(クライスラー・ニューヨーカー[81])にはエアコンを置かず、扇風機を付けていた。また、自宅のクーラーは1台だけだった[80]。
現役時代、乱闘時にはいかに興奮していてもタオルで左手をグルグル巻きにしてから飛び出したり、酒を飲んでいて興奮して机を叩いていても、いつも左手にはおしぼりが巻かれていたという逸話がある程、左腕を大事にしていた。
賢一たち自分の子供を抱くときにすら、絶対に左手で抱くことはなかった。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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