金田正一
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そうした事情もあって青田は実際に見た目から「戦前のスタルヒン、戦後の金田」と評している[注 3]
カーブ

剛速球の評価もさることながら、カーブを讃える者も多い。

有本義明は戦後最高のカーブの使い手として、堀内恒夫江川卓と並んで金田を挙げている。

佐々木信也は「カネやんのカーブは、真上に投げているのかと思ったら急激に曲がってストライクになった。あんなカーブは他に見たことがない」と述べている。

野村克也は「バッターの直前まで頭の高さで球が来て、ボールになるかと思ったらストライクになった。同じ高さでストレートも投げるから簡単には打てなかった。(金田と対戦するとき)バットはグリップエンドから二握り分くらい短く持った」と語っている。

金田のカーブは軌道の違いによって5種類あったといわれるが、特に「2階から落ちる」と言われた「モノになるのに10年かかった」という縦のカーブが武器だった。そのカーブは左肘に対する負担が大きく、毎年のように肘の痛みに苦しめられた。入団5年目辺りから引退までずっと肘が悪く、梅雨時や秋口は特に痛かったと本人が証言している。序盤快調だったシーズンでも梅雨時や秋口に1か月くらい勝てないことがよくあった。

巨人に移籍後は球速が落ちたが、バックの守りが安定していたこともあり、フォークやスラーブ、カットボール気味の速いカーブ、稀にシュートや超スローボールなども用いるようになり、球威の衰えをテクニックでカバーする技巧派の一面も見せている。

1973年にロッテ・オリオンズ監督(第1期)に就任した後、ブルペンで現役当時を彷彿させる落差のあるカーブを投げてみたところ、当時のロッテの正捕手がその球を捕球できなかったという[64]
記録

記録上における最大の特徴としては、奪三振の多さが挙げられる。

1957年、プロ入り8年目にして通算2000奪三振を達成した(金田が第1号)。金田以前にもヴィクトル・スタルヒン、若林忠志野口二郎中尾碩志藤本英雄、別所毅彦、杉下茂などの本格派の大投手はいたが、彼らはいずれも2000奪三振は達成していない。

奪三振の多さについては「打てば三振、守ればエラー」と言われるほど国鉄が弱く「せっかく凡打に討ち取ってもエラーされては何にもならない」という思いから三振を奪うことに注力した結果であるという。通算400勝と並んで通算4490奪三振も歴代1位であり、来歴の項にある通り当時はMLBの記録をも凌駕していた。奪三振は後にノーラン・ライアンが更新し、現在はライアンの他、ランディ・ジョンソンロジャー・クレメンスが金田の記録を上回る奪三振数を記録しており、とくにランディ・ジョンソンは金田と同じく左腕投手で4875奪三振を記録して金田の記録を超えている。

金田が入団した当時の国鉄は弱く、金田は国鉄時代にリーグ最多敗戦を3度、20敗以上6度、入団以来国鉄に在籍した全てのシーズンに当たる15年連続で2桁敗戦、通算267敗を記録している。弱い国鉄にいながら敗戦数を大きく上回る353勝を挙げ、この間のチーム全体の勝星833勝の42%に相当する。この間の国鉄の順位は最高で3位が1回あるだけでそれ以外は全て4位以下だったが、最下位は3回にとどまっている。また、20年間の現役中、最高勝率のタイトルは1度も獲得できなかった。

通算400勝の金字塔は、先発ローテーション確立前における、先発救援兼任や連投も当たり前だった投手酷使時代の産物で、今日の投手にとってはほとんど達成不可能な数字であるが、そんな中にあって後述のコンディショニング管理やトレーニング法で致命的な故障をせずに長期間勝ち続けた点に金田の真骨頂がある[注 4]。この時代の投手でも200勝を達成した人間は数える程しかおらず[注 5]、通算勝利数2位の米田哲也に50勝もの差をつけていることなどから、当時としても圧倒的だった。その勝利の約90%にあたる353勝を弱小球団であった国鉄時代に挙げていることも特筆に値する。当時国鉄と並ぶ弱小球団だった広島との対戦で通算90勝を挙げており、一人の投手が特定の1球団から挙げた勝ち星としては、自身の対大洋戦77勝、米田哲也の対ロッテ戦76勝を抑えて断トツである。広島に対しては通算30敗しかしておらず60の貯金があり、山田久志南海を相手に73勝28敗で貯めた45を抑えて1位である。

また、この400勝という数字はプロ野球の各国トップリーグの中でもメジャーリーグのサイ・ヤングの511勝、ウォルター・ジョンソンの417勝に次ぐ世界歴代3位の記録で、戦後にプレーした投手に限定すれば、金田以外に通算400勝を達成した投手は存在しない。加えて左腕投手での通算400勝も世界唯一であり、これに次ぐのがウォーレン・スパーンの363勝である。

現役晩年、400勝と並んで金田が記録更新を目指したのがスタルヒンの持つ通算完封記録で、金田の現役当時スタルヒンの公式な完封数は84とされていた。金田は82完封で引退することになったが、金田の現役引退から数年後に集計ミスが発覚し、スタルヒンの通算完封数は83に訂正されている。仮に前記の集計ミスが金田の現役中に発見されて訂正されていたら、あとひとつまで迫っていただけに記録更新の可能性もあったとする意見がある[65]。勝星を稼ぐために中継ぎ転向を勧められたこともあったが、金田はこの通算完封数の記録更新のために先発にこだわり続けたという。82完封のうち1/4以上を占める23試合で1-0のスコアで勝っており、通算1位である。既述のノーヒットノーラン、完全試合ともいずれも1-0である。0-1の完投敗戦21も史上1位である(0-2は9試合、1-2は17試合)。1-0での完封勝利の全て、0-1の完投敗戦も20敗までが国鉄時代に記録したものである[66]

リリーフとしては通算400勝中132勝[67]、そのうち国鉄時代353勝中114勝がリリーフでの勝利であり、この時代のエース級投手はシーズン中、先発・リリーフの区別なく酷使されることも珍しくなく、稲尾和久は通算276勝中108勝、秋山登は193勝中89勝、杉浦忠は187勝中75勝がリリーフ勝利である。特に国鉄は弱小チームのため金田が投げなければ勝ちを稼げないという事情もあった。リリーフ登板の多さゆえサヨナラ本塁打を打たれることも多く、通算12本の被弾は10本で2位の稲尾を上回り歴代1位。国鉄時代に対戦相手となったセ・リーグ全5球団の試合で打たれていて、最初の1本は苦手にしていた阪神の吉田義男、最後となる12本目は巨人の長嶋茂雄だった。12本全て国鉄時代に記録されたものである。

入団翌年の1951年から国鉄在籍最終シーズンの1964年まで14年連続で「20勝以上・300投球回数以上・200奪三振以上」のプロ野球記録を達成しているが、前述の通り国鉄は弱小チームだったこともあり最多勝を獲得したのは1957年、1958年、1963年の3回だけである。

1952年8月9日の対巨人戦で、延長13回裏無死一・三塁から敬遠として投げた1球目が大きくそれてサヨナラ負けを喫したことがある。「敬遠球を暴投してのサヨナラ負け」は、30年後の1982年に阪神の小林繁が記録するまでプロ野球史上唯一の記録であった。入団当初は制球力に難があり、1950年11月4日の対巨人戦で1試合10四球、1952年には与四球197といういずれもセ・リーグ記録を作っている。無四球試合も最初の3年間は1度も記録できなかった。


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