2012年11月14日、『徹子の部屋』(テレビ朝日)に36年ぶりに出演した[45]。
2015年6月25日には『アウト×デラックス』(フジテレビ)に出演し、「自分のことやから言うけど36歳で(現役を)終えてるの。皆40歳近くまでやってるでしょ。それが凄いんです」と発言。さっそく自らを絶賛し、山里亮太から「ダルビッシュとどっちが凄いんですか?」と訊かれると、「それは無礼だよ」と言い、矢部浩之から「現役時代180キロは出ていたと発言」といった金田の伝説が紹介されると、「その頃は測る機械もないじゃない。出たと思えばいい」と答えた[46]。歯に衣着せぬキャラクターでロッテ監督退団後も引き続きタレントとして活動していた。
2019年7月、自宅で倒れ、心筋梗塞と診断される。11日間の入院生活を送るが、無事退院し、週刊誌の取材にも応えていた[47][48]。
2019年10月6日午前4時38分、急性胆管炎による敗血症のため東京都内の病院で死去[1][49]。86歳没。通夜・告別式は近親者のみで営んだ[50]。最晩年のテレビ出演は2018年10月28日放送の『サンデーモーニング』(TBSテレビ)と、11月3日放送の『関口宏の人生の詩U』(BS-TBS)だった。長男の賢一によると「あの世へ行っても仏様の弟子にはとてもなれない」との考えから、戒名は付けなかったという[51]。
翌2020年1月21日、帝国ホテルにて「お別れの会」が開催され、約500名が参列した[52]。この会合に参列した野村克也は、その21日後に死去した[53]。 20年の現役生活において、用いた球種は速球と縦に鋭く割れるカーブ、タイミングを外すスローカーブのみであった。 特に速球については「手元から離れても最後まで速度が落ちない快速球」[54] と言われるほど、凄まじい球威を持っていたとされ、数々の逸話を残している。 投球術については、国鉄-巨人の現役時代を通じて捕手からのサインの指示を受けず、自らの判断のみで投球内容を決定する「ノーサイン」を貫き通した。 金田の投球フォームは、弓のような強靭でやわらかい長身細身の全身を(引退後もテレビなどで難なく股割りを披露している)流れるように使ったオーバースローである。前足を踏み出すと同時に、軸足のひざを曲げて重心の下げとためをつくり、弓を引くように左肩を後方に大きく引きつけて、テイクバックした左腕を停止させずに振り子のように回しながら、一気に上半身を大きく前方に倒れこませるようにしてリリースする。金田自身は「投手にとって最も大事な要素は下半身」という持論を持っており、自身の鍛錬や村田兆治ら後進への指導の際には走り込みを最も重視しており[55]、監督時代には「足で投げろ!」と檄を飛ばすほど下半身主導の投球の大切さを説いていた[56]。金田のオーバースローは、左手の掌はテイクバックの際に上を向くアーム式[57] で、踏み出し幅は小さく、前足の膝はリリース後のフォロースルーまで真っ直ぐに突っ張ったまま[58] という、今日では古典的とされるフォームでありながらも、リリースの寸前まで後方に引き付けられた左肩の大きな可動域と、全身に負担が分散される体のやわからかさと使い方のうまさ、上半身主導の強い遠心力を支え切る強靭な足腰が、20年に渡る現役生活で肘以外に大きな故障を起こすこと無く大記録を達成する原動力となった。 なお金田は自身の投球フォームを確立するに当たり、高校時代より藤本英雄の深く沈み込むフォームの写真を参考にしたという。球は速いが制球が悪すぎてチームメイトからすら「(危険過ぎるため)もう金田を投げさせないでくれ」と監督に懇願されるほどであった自身の欠点を克服する為、毎晩銭湯の鏡の前で藤本のフォームの写真を見ながらシャドーピッチングを行った。この時身に付いた「重心の低いフォーム」が、後年8種類とも自称した多彩なカーブの切れ味に貢献したという[59]。 高校時代、金田の投球を捕球出来る捕手がおらず、苦肉の策として投球練習する際、捕手をマウンドの上に座らせ自身がホームベース上に立って投球練習を行ったという。 プロデビューした年、長野における阪神戦で、阪神の主軸打者であった金田正泰が「あいつのボールは速過ぎる。投手と捕手との間隔が短過ぎるのではないか」とクレームをつけたためゲームは中断、金田正泰と審判とがメジャーで計ったところ、間隔は規定通りであった。 全盛期の金田と対戦した経験がある選手たちは異口同音に「間違いなく150 km/h台の後半か、160 km/h台を出していただろう」と証言しており、川上哲治も「最も速い球を投げる日本人投手は誰か」と問われた際「自分が実際に見た中で言うなら、金田だと思いますね。若い頃はもう、本当に速かった」と答えている。 ライバルであった投手の側からの評価も非常に高く、金田に次ぐ350勝を挙げた米田哲也は「(金田の球速は)当時で160km/hぐらいはあったと思う。(自身も)目標にしていた」と述べており[60]、320勝を挙げた小山正明は「カネさん(金田)とヨネ(米田)は軽く投げて160km/h台。僕がその少し下くらい(自己評価では150km/h台は軽く越えた、としている[61])やろうね」と述べていた[62]。 金田は自身の現役最末期、青田昇の元を訪ね「ワシと沢村栄治さんと球どっちが速かったですか?」と尋ねたことがある。青田は「沢村に決まっとるやないか! お前と比べれるかい!」と一喝し、金田はその答えに憮然としながら去ったというが、後に「キツイこと言って悪いことしたな。沢村のことは大切にしなきゃいかんが、本当は金田のほうがすごかったかもしれんなあ」と述懐している。但し青田は1942年の巨人入団で、沢村と巨人で共にプレーしたのは短い期間であり、その頃には兵役に就いていた影響で沢村は全盛期のような快速球を既に投げることが出来なくなっていた。
プレースタイル
投球
球速