金田正一
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シーズンオフの10月23日には張本勲監督率いる「日本プロ選抜チーム」[31]も同行し、韓国へ出発[32] [33]翌24日の韓国アマ選抜との試合では1点先行されたが、6回に同点、9回には決勝の1点を奪い、三井・成重春生小川清一村田兆治の継投で逃げ切った[31]

1976年江藤慎一が加入。村田が最優秀防御率を獲得する活躍を見せたが、前後期ともに3位であった。1977年白仁天高橋博士安木祥二が加入。国鉄時代同僚だった徳武定祐が金田の招きでコーチに就任[34]。有藤が首位打者を、新加入のレロン・リーが本塁打王と打点王の二冠を獲得する活躍で後期優勝を決めるが、プレーオフで阪急に敗退したため日本シリーズ出場はならず。1978年には川崎球場を本拠地とし、投手陣のリーダー格で前年に2年連続2桁の11勝を挙げていた八木沢を「お前はもう限界」と強制的に引退させようとしたことから、一気に求心力を失う。金田の監督生活後半はワンマン気質がたたって選手との間に溝が出来ていた[25]。前期の終盤に15連敗を記録して5位に転落し、その低迷のイライラを選手にぶつけて更に孤立。後期もなかなか勝ち上がれず、8月22日のスポーツ紙には「金田更迭」の大見出しが載る。優勝の可能性が消えてからはゴルフ場から球場に直行することが頻繁にあり、時には遅刻することもあった[35]。最大の後見役であった重光武雄オーナーからの了承もあり、9月30日に辞表を提出し10月2日正式に退任した[36]。なお、重光オーナーは金田の後任候補として前年オフに南海を解雇された野村克也を入団させており、選手兼任監督として就任要請をするも、野村は尊敬していた金田の代わりは恐れ多いと固辞し、退団。結果としてもう一人の監督候補であった球団OB(前身の毎日オリオンズ→大毎オリオンズに在籍)の山内一弘が後任として監督に就任し、1981年オフに再びロッテから監督候補として挙がったが再任は見送られた。1986年オフにも再びロッテの監督候補に挙がり総合コーチが高木公男が就任するなどコーチ陣も決まっていたが重光武雄オーナー、松井静郎球団社長が「金田じゃダメだ」と言い、有藤によると当時のロッテはオーナー、球団社長が監督を決めていた為一回監督就任を固辞した有藤が重光オーナーから再び監督要請を受けて就任した[37]。レロン・リーは「現役時代に400勝を挙げた。となれば、並の選手には理解できない技術や指導論があるものです。金田さんも誤解されていた点が多かったと思います。実は私も最初、彼の言動を消化できないことがあった。でもその後、少しずつ目指す野球がわかってきて、今では尊敬する監督の一人です。最初に金田さんと出会えたおかげでいい野球人生を送ることができました」と述べている[38]。暗黒時代のパリーグに光を当て、稲尾和久から「パリーグの宝」と言わしめ偉大な監督と評された[25]。監督辞任後はロッテ球団に非常勤の取締役として残留する傍ら(この時点では元オーナーの永田雅一も、非常勤の取締役として名を連ねていた)、フジテレビ(1979年 - 1981年)・ニッポン放送(1979年 - 1983年)、日本テレビ(1981年 - 1989年)で解説者を務めた。1978年に日本プロ野球名球会を設立し、1981年の株式会社改組後は代表取締役を務めた。1988年野球殿堂入り。
第二次ロッテ監督時代

1989年10月27日ロッテの監督に復帰した。ヘッドコーチは徳武が就任。2期目の1年目は主砲のマイク・ディアズが2年連続の3割30本100打点を記録し、若手では前田幸長小宮山悟の活躍もあり、広島からトレードで移籍してきた白武佳久がリリーフで10勝を挙げるも、同じく広島からトレードで移籍してきた高橋慶彦は成績が振るわず、前年2桁勝利を挙げた牛島和彦は故障によりシーズンをほぼ棒に振り、5位に終わる。高橋は「監督の金田さんと揉めてね。真夏のオールスター休みの日。立川の昭和記念公園に選手が集められて、朝10時から散歩、1時間。金田さんに『慶彦、どうや、この散歩いいやろ?』って言われて、『わかりません』って言ったの。もうオレ、33で若くないし、しんどいから。そしたら『なに??』って言われて、機嫌悪くされて。たぶんそれから関係が悪くなった。しかも、あるコーチからね、『慶彦、監督にゴマすれよ』なんて言われたから。それでまたカチンときてね。オレはそういう人間じゃないんで。だからもっと関係がギクシャクして、『阪神に行ってくれ』ってなったんだと思う。まあ、もともと『外野に行け』って言われた時もできる状態じゃなかったし、ショートには佐藤健一もいたしね」[39]と述べている。4年連続盗塁王の西村徳文が首位打者を獲得し、長年エースとして活躍した村田が引退。オフのドラフトで8球団の競合だった小池秀郎をくじ引きで交渉権を得るも、入団を拒否される。この入団拒否は、元々ロッテが小池の意中の球団でなかったことと、金田の選手育成方針や言動などに小池が不信感を持ったことが原因と言われている。

1991年は4年目の堀幸一がレギュラーに定着し、観客動員100万人を達成したが、前年ブレークしかけた伊良部秀輝が不振で、前年は一時捕手も任せたマイク・ディアズが骨折によりシーズン途中で離脱するなど、最下位に終わる。平井光親が首位打者を獲得。本拠地川崎球場の老朽化や観客動員低迷への抜本的打開策として、球団側は翌シーズンからの千葉県千葉市千葉マリンスタジアム(当時)移転を決めたため、川崎時代最後の監督となる。


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