金田正一
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南海との日本シリーズでも開幕戦に先発して完投勝利を飾るなど[22]、2勝を挙げている。

1966年は左肘の調子が思わしくなく、開幕から3試合連続ノックアウトされて戦列を離れると[23]、シーズンを通じて4勝に終わる。1967年は復活し、城之内邦雄(17勝)に次ぐ16勝に防御率2.28(リーグ4位)を記録。以降は徐々に成績を落とし、1969年10月10日の中日戦で日本球界初の通算400勝を達成。同年11月30日に記者会見を行い、現役引退を正式に表明した。巨人での背番号34は球団では4例目となる永久欠番に指定された。

金田は当初は引退するつもりがなかったが、石原慎太郎に「もう400勝を区切りに身を引くべきだ」と諭された。金田は「わしはまだできる」と抵抗したが、石原の「誰もあなたが打たれるのを見たくはない。なぜならあなたは金田正一だからだ」というセリフに、最終的には引退を受け入れた。このエピソードが『文藝春秋』に石原本人の執筆で掲載されたことがある。CS日本「巨人の魂」での金田の証言によると、川上が試合前のミーティングで金田に400勝をさせて辞めてもらおうと言ったという。金田がそれに気づいたのは400勝達成の胴上げの際、長嶋が泣きながら「御苦労様でした」と言ってきたことだった。

引退会見では長年の酷使で左腕が伸びきらないことを披露。この場面は野球漫画「巨人の星」にも描かれた。ただし、引退後に左腕は再びまっすぐ伸びるようになっている[注 2]

1970年4月2日に後楽園球場で古巣・ヤクルトとのオープン戦にて引退試合が行われた。
引退後
第一次ロッテ監督時代

引退後は日本テレビ(1970年 - 1972年)・ニッポン放送(1972年)で解説者を務める傍ら、タレントとしても活動していた[24]。同時に実業家で会社を経営する経営者でもあった[25]。1972年11月17日、ロッテの監督に就任[25]。年俸は2400万円で巨人・川上哲治に次ぐ金額で新人監督として異例の好条件であった[25]。「新人監督なのに年俸が高すぎる」という関係者もいた(阪急で黄金時代を築いていた阪急の西本幸雄監督の年俸は1300万円だった。)[25]。しかし金田は「順調だった仕事をなげうってまで監督を引き受け引き受けようとしてるんやで。ワシの今までの働きからすれば安いもんや」と一蹴[25]。また現役時代「天皇」と呼ばれたほどのワンマンだった金田が監督業が務まるのかという危惧にも「名選手必ずしも名監督あらず、というのはことわざや。野球界に金田旋風を起こすつもりや。」と意に介さなかった[25]。当時のロッテの状況は取り巻くほどひっ迫していた[25]。2軍監督は金田の高校の先輩高木公男が就任。この年に5位に沈んだロッテは観客動員がわずか31万人で川崎球場閑古鳥が鳴いていた[25]黒い霧事件もあり観客動員が大幅に激減していた[25]。金田は「ワシが野球界に戻そうとしているのはロッテだけの再建やないで、日本の野球界再建の為や。」、「ピンチのパリーグのお客さんを呼ばなきゃいかん。」、「お客さんを呼ぶためにはワシは球場で逆立ちしてもええ。」[25]と述べた。金田就任からチームが千葉ロッテマリーンズになるまで19シーズンにわたって使用されたユニフォームは金田がデザインし、軽量化にも拘った。1974年にはチームをリーグ優勝・日本一に導く。

注目度は高く1973年のロッテの鹿児島キャンプの観客数は巨人に次ぐ2位[25]。選手たちをまるで陸上部からと思わせるほどの徹底的な走り込みを課し体力強化に努め12球団と言われた豪華な食事を準備しトレーナーの数を増員するなどアフターケアも欠かさなかった[25]。本拠地を失い地方ゲームが増えたというハンディを乗り越え3位に浮上した[25]。同年のリーグ最小失点も記録し、防御率ベストテンに3人(成田文男八木沢荘六木樽正明)もランクイン。特に成田は21勝で最多勝を獲得。弘田澄男を中堅手のレギュラーに抜擢した[26]三井雅晴は一軍に上がった当初は打撃投手だったがそこでの投球が金田に評価され主力投手になった[27]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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