金田正一
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自らの野球人生に汚点を残すこととなった1990年6月23日の西武戦(西武球場)でのパ・リーグ審判員の高木敏昭に対する審判暴行事件も足蹴りである[注 12]。この暴行により通算7度目の退場処分を受け藤本定義に並び最多退場となる。パ・リーグから罰金100万円と出場停止30日という重い処分を課された。出場停止中には川崎球場のスコアボードの裏からベンチにサインを送っていて窒息しそうになったという。

1991年5月10日の日本ハム戦(東京ドーム)で球審の山崎夏生の判定に対して「どこ見とんじゃ、バカヤロー」と暴言を吐いたとして通算8回目(国鉄1回、巨人1回、ロッテ監督6回)の退場処分を受けた[112]。その後も金田と山崎は打席付近で怒鳴りあいとなり、そのシーンはスポーツニュースのトップで放映された[112]。金田は後日、「お前は、大学出てるんだってな。そりゃ、バカヤローってすまんかったあ。ヘタクソ!って言えばよかった」と述べた[注 13]。通算8回の退場処分[注 14]2005年5月29日にタフィ・ローズが更新するまでの最多記録であり、日本人だけに限定すれば未だ最多記録である。

同年9月1日の対西武戦では、同点の9回裏に二塁走者西村徳文の治療で約20分経過させたこと(結局代走が送られ、9回時間切れで引き分けた)[113] に対して、当時存在した4時間ルールを利用した遅延行為と評され、西武の森監督は「こんなことがまかり通るのか」[114] と怒りを示した。

気性の激しいイメージが強い一方、実は非常に気が優しく、よく人を気遣っていたという。審判に対しても小声で「すまんがこれから怒鳴るから、悪いがしばらく黙って聞いててくれ」と前置きしてから大声で怒鳴ることも多かった[115]。金田の第二期目の監督時代、ロッテの主力選手だった愛甲猛によると、監督が金田になるということで猛練習を予期していたが、実際に金田になってみると雨の日は練習を休みにするなど、選手の休養を考えてくれる面があって意外に思ったという。美味しい食べ物が金田の実家から届いたりすると、それを選手の食事の場で振舞ってくれたりする優しい気遣いの面もあったと愛甲は記している。また、1989年の秋季キャンプは宿泊でなく、通いで行なわれた。ただし愛甲は「色々な指導者に出会ったがミスをした後一言のフォローもなかったのは金田さんだけだった。」とも述べている。

自己主張の強い性格は現役時代から変わらず、投手交代の際に余興も兼ねて投球してみせる、紅白戦の際に監督自ら登板してクリーンナップを打ち取るなど旺盛な精力を見せつけている。なお、クリーンナップを打ち取った際には「これ以上続けたら選手自信無くすよ」と冗談交じりに話していた(その年ロッテは4位に伸び悩んでいる)。

投手分業制が確立された現在でも「先発完投こそが王道」が持論であるが、第二期監督時代には先発を早い回で見切って多数の投手をつぎ込むことが多かった。1990年8月5日には、先発の今野隆裕が打者2人目に二塁打を打たれると計4球で交替させ、同月19日にも、プロ初先発の八島祥司が先頭から2者連続安打を許すと交代させている。八島はこれがプロ唯一の先発で唯一の敗戦となった。牛島和彦は故障の上に金田との確執が噂された他、小池秀郎に入団拒否されるなど投手力向上を果たせなかった。

ロッテ監督時代にドラフトで交渉権を得たある投手にロッテ入りを断固拒否され、説得のために裏金を用意したという過去を、退任後に『週刊ポスト』誌上の対談コラム内で明らかにした。それによると、その際金田は娘が運転する自動車のトランクに隠れるという力技で報道陣の包囲を突破した。しかし間もなくトランクの中が酸欠状態になり窒息寸前に陥り、更に裏金を渡そうとした野球部監督には「選手は金だけでは育たない」と逆に説教され、裏金は渡せずに追い返されてしまった。

監督時代も一貫して選手時代の背番号34をつけた。最初の監督時には34をつけていた池辺巌を背番号16に、2回目の監督時にはやはり34をつけていた笠原栄一を41にそれぞれ変更させた。ちなみに池辺とは監督就任時から激しく対立し、1974年オフに池辺を交換トレードで阪神に放出している。

金田は8回の退場処分を受けたがそのうちの6回が監督時代のもの[116]
球界に対するスタンス

引退後は巨人OBであることを公言しており、解説者を務めていた頃は巨人寄りの発言が多かった。2007年6月11日、巨人V9時代のメンバーとして始球式に参加している。2008年には川上哲治との連名となった「永久欠番シリーズ」でも取り上げられた。

同時に、国鉄OBであることも公言している。1987年の国鉄分割民営化の際に新聞に寄せたコメントの中では、労使が一体となって応援していたことを懐かしんでいた。2001年に開かれた長谷川良平の野球殿堂入りを記念する祝賀会では「俺のふるさと国鉄スワローズはもうない。今でもカープファンの中にいられる長谷川がうらやましい」と、国鉄スワローズに対する思いを吐露していた。OBのオールスターゲームに参加した際は、巨人のユニフォームと国鉄のユニフォームの両方を着用したが、長嶋茂雄が参加した場合は国鉄のユニフォームを着ることが多かった。「国鉄スワローズというチームはもうなくなったから」との理由から、国鉄の後身である東京ヤクルトスワローズ[注 15]と関わりを持つことは少なかった。ただし、同年、田口周箱田淳・丸山完二と共に国鉄・サンケイ・ヤクルトのOB会組織統一によるNPO法人「つばめスポーツ振興協会」設立に尽力。2009年1月16日にはOB会総会で挨拶をし、5月24日には始球式に出席している。

自ら監督を務めたロッテについても愛着があり、日本テレビの解説者時代の1989年に行われたオープン戦ではロッテ寄りの解説を行い、ロッテの選手達には伝わっていないが興奮して放送席からロッテ選手に対して指示を出していた。のちに千葉ロッテマリーンズがOBデーを開催した時は、有藤道世らと共にOBの一人としてマリーンズや前身のオリオンズのユニフォームを着て出場している。また、2020年1月21日に開かれた金田の「お別れの会」では開催2日前に急逝したロッテのオーナー・重光武雄からの弔電が読み上げられ、息子の金田賢一から金田が晩年によく重光との思い出話をしていた、というエピソードを明かしている[52]

球界の活性化のためには「巨人はパ・リーグに行くべき」だと主張している。

北京オリンピック野球日本代表の監督を務め、4位に終わった星野仙一について「それだけの力がない。名前が先行しているだけで、大監督なんかじゃないんだよ」「采配見ててもあれしか出来なかっただけの能力の問題。コマーシャルに出演したり、『わしやったら上原を1週間で治してみせる』などと言っていたが、これは完全な驕り。言っちゃいけない言葉を言ったら、神様は勝たせてくれない」と星野を批判した。


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