金田正一
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プロ初登板は1950年8月23日の広島戦(松山)で3番手で登板、好投したものの9回に捕まり、阪田清春にサヨナラ打を浴び初黒星を喫した。国鉄は17歳の金田を即戦力として積極的に起用し、8月デビューながら8勝を挙げた。野球界が特待生制度の是非で揺れた時期に、自身もかつては各プロスポーツ関係者から手厚い待遇を受けており、特に自分に対する待遇は他の者よりも優遇されており「自分は特待生の中の特待生」だったと明かしている。金田の弁によれば、この制度によって様々な経済的援助を受けたことにより、「中学・高校を通して学費を払ったことが一切ない」という程だった。金田本人はプロ入り後の収入でそれらの金を返済するつもりだったが、現役時どころか現在に至るまで返済を求める者が現れず、半ばなかったことになってしまったという。

1951年は全107試合中44試合に先発登板し、9月5日の対大阪タイガース戦(大阪球場)でノーヒットノーランを達成。18歳35日での達成は史上最年少記録であり、昭和生まれ初の達成となった。同年は22勝を挙げ、以後14年連続20勝を記録。タイトルでは無かったが、自身初の最多奪三振を達成する。

1952年、2年連続で最多奪三振を達成。

1953年、3年連続で最多奪三振を達成。

1954年8月8日の試合で球審の国友正一に対して暴言を吐き自身初の退場処分となった[13]

1955年、自身4度目の最多奪三振を達成。初の防御率1点台となり、1958年までリーグ屈指の投手成績を続ける。この年は自身最多の400投球回を記録したが、全130試合中62試合で投げ、うち37試合が先発、34試合が完投という異常な登板ぶりだった。終盤にはダブルヘッダーで連投し、うち1試合は完封、さらに翌日に先発登板して完投したことさえある(8月27日?28日)。

1956年、自身5度目の最多奪三振を達成。さらに自身初の沢村栄治賞を受賞する(昭和生まれ初)。

1957年8月21日の中日戦(中日)では完全試合を達成。登板の前日に下痢を発症して体調を崩した中での記録達成であった。しかも、達成直前の9回一死で酒井敏明のハーフスイングの判定を巡って中日が猛抗議し、観客もグラウンドに乱入して43分間の中断があったが、金田は全く動じなかった。再開後に対戦した2人の打者を共に全て空振りの3球三振に仕留め、大記録達成に花を添えた。中断の間、金田は「そんなにワシのことが嫌いか。そんなにワシの記録にケチをつけたいんかい!」と怒りに震えていたという[14]。なお、NPBの公式戦において左腕投手で完全試合を達成したのは未だに金田ただ1人である。また、この年は自身初の最多勝最優秀防御率を獲得し、 自身初のベストナインを受賞。さらに2年連続で沢村賞を受賞した。

1958年4月5日の開幕戦(巨人後楽園)では長嶋茂雄から4打席連続三振を奪い、プロの意地を見せた。開幕戦直前、長嶋がオープン戦で左腕投手を打ち崩し「開幕戦でも金田投手を打ち崩せるかもしれません」との報道に金田が激怒したという。しかし、結果4連続三振を奪ったものの、試合後、金田は顔をこわばらせ「あの小僧、モノになるかもしれない。三振は全部フルスイングだった」と述べている。初対決で金田から4打席4三振を喫した長嶋は「カーブのキレがよく、特にドロップに手が出なかった。さすが金田さんだ」と感想を残した[15]。次の対戦でも最初の打席で三振を奪い、長嶋のデビューから対戦5打席連続で三振に仕留めた。長嶋は1964年までの7年間で金田から打率.313、18本塁打を記録し、金田から最も多くの本塁打を打った打者となっている。同年6月5日に通算200勝を達成。24歳での達成は史上最年少記録である。6月12日には開幕より僅か70日の51試合目でシーズン20勝目を挙げ、いずれも史上最速。この時点での成績は9完封を含む20勝2敗(他に13イニング2失点の完投引き分け1)、防御率0.57という圧倒的なもので、64回1/3連続無失点の日本記録もこの間に達成。しかし、夏場に入ると肘痛に苦しみ、8月下旬から30日間白星に見放されるなどあって、シーズンでは31勝(14敗)に留まった[16]。この年も最多勝と最優秀防御率(1.30)を獲得。防御率1.297は左投手のNPB最高記録[17]、自身6度目の最多奪三振(311)を達成。ベストナインも受賞。さらに史上初の3年連続沢村賞受賞を達成した。このシーズンがキャリアハイとなる。

1959年には王貞治が巨人に入団し、4月11日の開幕戦で対戦、2打数2三振を奪った。王は同じく1964年までの6年間で打率.283、13本塁打を記録。金田は毎年最低1本は王に本塁打を打たれたが、特に最後の対戦となった1964年には1シーズンで7本塁打を打たれた。この年も自身7度目の最多奪三振を達成。

1960年、自身8度目の最多奪三振を達成。

1962年9月5日にウォルター・ジョンソンの記録を破る通算3509奪三振を達成。しかし、1959年からこの年まではシーズン中に好不調の波があり、20勝こそ達成していたが、1955年から1958年のような圧倒的な成績ではなかった。

1963年6月30日に通算311勝を記録。別所毅彦を抜き、プロ野球歴代1位となった。この年はシーズン30勝を記録しているが、これ以降セ・リーグでは達成した投手はいない。この年は、最多勝を獲得し、自身9度目の最多奪三振を達成。ベストナインも受賞する。

1964年までに14年連続20勝、通算353勝を挙げた。巨人戦通算65勝は歴代1位。国鉄時代の通算353勝という数字から見ると特に対巨人戦の勝ち星が多いというわけではなく、どのチームからもほぼ満遍なく勝ち星を挙げている。国鉄時代、最も勝ち星が多かった相手は広島で83勝。巨人戦では通算72敗を喫し、負け越している。この年は自身10度目の最多奪三振を達成。同年シーズン終了後に残留交渉がまとまらず、12月21日にB級10年選手制度を行使して15年間慣れ親しんだ国鉄を退団することとなった。金田が国鉄スワローズを見限ったのは、1962年に産経新聞社フジテレビが球団経営に参加した時点に遡る。この時の産経・フジのやり方に反発し、この年の移籍につながったと言われている[注 1]。また、金田は監督の林義一との関係がうまくいっておらず、コーチであった飯田徳治の監督昇格を主張する国鉄に反して、産経側が林を留任させたことも、金田の移籍に繋がった[18]
巨人時代

セ・リーグ会長の鈴木龍二は金田に対して、同年の順位の下位球団である、中日(6位)・広島(4位)と入団交渉するように指示。中日は地元名古屋出身の金田を強く勧誘し、契約金1億円を提示したとも言われるが、金田は拒否[18]。次に、同年3位の巨人と交渉してまとまり、12月24日に巨人への移籍が正式に発表された[19]。契約金7000万円、年俸2000万円(いずれも推定)とされる[18]

金田の巨人入団には、巨人ナインも金田に見習ってほしいという監督・川上哲治の思惑があった。金田入団後、巨人選手は「あれだけの実績を上げた人が俺達よりも走っている」と感嘆したという。長嶋も金田から身体作りの手ほどきを受けスランプを脱した。巨人時代の金田の成績はわずか47勝しかないが、選手の意識改革を促してチームの9連覇に貢献した。川上は金田のプライドを尊重し、勝ち星こそ少ないものの、金田が巨人に在籍した5年間で日本シリーズ第1戦先発に3度(1965年、1967年、1968年)、公式戦の開幕投手にも4度(1965年、1967?69年)指名している。大舞台に数々の修羅場をくぐってきた金田の経験を活かしたい川上の思いに、金田も見事に応えて好投した。そんな金田も、ある試合で本塁打を打った長嶋の頭を叩くなどしてホームで手荒く出迎えたところ、チームメイトから一斉に冷ややかな視線を向けられた。国鉄時代は「天皇」の異名を取った自分も巨人においては外様に過ぎないのだと思い知らされたという。

1965年4月10日の開幕戦(対中日)で先発に起用されると、2失点で完投勝利を飾る。またこの試合では6回に自ら試合を決める本塁打も放っている[20]。翌々日の4月12日の阪神戦では、柿本実が長嶋に対して際どいシュートを投げたことから乱闘騒ぎになり、柿本を突いたとして柳田利夫と共に2度目の退場処分を受けた。この年は巨人への移籍により登板数が減るが、主戦投手として6月初旬までに6勝を挙げる。梅雨の到来とともに持病の左肘痛が悪化して調子を落とすと、約3ヶ月勝ち星から見放される。9月8日の対サンケイ戦で久々に7勝目を挙げると、閉幕までに5勝を重ねたがシーズンでは11勝に終わる。結局、連続シーズン20勝の記録は14年で途切れるが、防御率1.84で3度目の最優秀防御率のタイトルを獲得した。なお、この年は不調の夏場に約1ヶ月間一軍選手登録を抹消され、9月4日の対東映戦では生涯唯一となる二軍での登板を果たした[21]。南海との日本シリーズでも開幕戦に先発して完投勝利を飾るなど[22]、2勝を挙げている。

1966年は左肘の調子が思わしくなく、開幕から3試合連続ノックアウトされて戦列を離れると[23]、シーズンを通じて4勝に終わる。1967年は復活し、城之内邦雄(17勝)に次ぐ16勝に防御率2.28(リーグ4位)を記録。


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