金田一京助
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旅費は、勝定から100円、上田から100円の計200円もの大金を使ったが、40日の滞在で文法や4000の語彙の採集に成功、その帰り、京助は生活の心配という迷いを断ち切り、アイヌ語の道を進むことを決意する。調査報告を上田に提出した10月、すでに大学の卒業式は終わっていた[11]

1908年(明治41年)4月、海城中学校に国語教師として就職する。その月末、下宿「赤心館」に石川啄木が転がり込んでくる。京助は啄木に金を貸した上、2人分の家賃30円を払っていたが、8月、持ち合わせがなく、下宿のおかみに支払いを待ってくれるよう頼んだが断られる。腹を立てた京助は荷車二台分の蔵書を売り払い、30円の金を作って家賃を払うと、9月初め啄木と別の下宿「蓋平館」に引っ越す。10月、言語学科出身の京助に教員資格がないことが判明、失職する。恩師の金沢庄三郎の紹介で三省堂に就職、また國學院大学の非常勤講師となる。啄木も翌年3月東京朝日新聞社の校正係に採用され、上京してきた妻子と引っ越していった[12]

1909年(明治42年)、27歳の京助は20歳の林静江と結婚。紹介したのは啄木で、「文学士で大学講師で、くにではおじさんが盛岡の銀行頭取」と宣伝して縁談を進めた。京助は、結婚するなら、くにの女ではなく標準語本郷あたりの娘をもらいたいと考えており、本郷出身の静江に心動かされた。12月28日に結婚式をあげ、箱根に新婚旅行、その後盛岡の勝定の家で披露宴を行ったが、東京育ちの静江は盛岡になじめず、田舎嫌いになった。その上、啄木がたびたび金を無心にくるため、静江はやりくりに頭を悩ませたが、京助は頓着しなかった[13]。しかし静江はついに「自分と啄木のどっちが大切か」と音を上げ、京助は啄木と距離を置くようになる[14]。1910年に啄木の長男・真一が生後24日目で死去した際、啄木は京助に葬儀のため喪服を借りたいと葉書を送ったが京助は返書を出さず、会葬も香典の拠出もしなかった[15]。さらに直後に刊行された『一握の砂』では扉の文章で名前を挙げて謝意を示され献呈本も送られたが、まったく反応を示さなかった[15][注釈 1]。1911年(明治44年)7月、すでに病床にあった啄木は酷暑の中、杖をついて京助の自宅を訪問し、これが啄木の「最後の訪問」となった[17]

1912年(明治45年)1月に、長女・郁子が満1歳を20日後に控えて死去し、これに対して啄木が出した悔やみの葉書が最後の京助宛書簡となる[17]。3月30日、啄木が重態となったことを読売新聞の記事(土岐哀果が執筆)で知った京助は、予定していた花見を取りやめて処女出版作『新言語学』(A History Of Th Languageの翻訳、6月刊行)の稿料の半分10円(実際にはその日に稿料は受け取れず、自宅にあった金から「稿料の半分」として持ち出した)を持ってかけつけ、啄木と妻・節子は涙を流してその好意に感謝した[18][19]。4月13日早朝、啄木が危篤となり、節子は人力車で京助を呼び寄せたが、まもなく啄木は意識を回復させて会話もしたため、「大丈夫」と安心した京助は國學院に出勤した[19]。しかし、その直後に啄木は死去し、講義を終えて啄木宅に引き返した京助は啄木の遺骸と対面することになった[19][18]。啄木の葬儀を済ませてまもなく、実家から父危篤の報が入り、京助は帰郷する[20]

同年、9月26日、父の久米之助が死去。久米之助は事業の失敗で借金がかさみ、本家の養子の金田一国士に借金の肩代わりをしてもらうかわりに家屋敷をとられ、一家は本家の長屋暮らしとなっていた。東京の病院に入院した久米之助を見舞った京助は「おれはおまえに飯粒一つ食わせてもらったことはなかったぞ」と言われ、父の死後は金にならないアイヌ語の研究をやめようかと思ったが、父を犠牲にした研究を生半可にするかと逆に気持ちを奮い立たせたという。9月三省堂が倒産、京助はまたも失職する[21]
虎杖丸の曲

10月、東京の上野公園で拓殖博覧会が開催される。京助は、来場者に日本の少数民族のあいさつや日常語を教えるアルバイトをしながら、参加していた樺太アイヌたちに聞き取り調査を行い、サハリンで採集したユーカラ「ハウキ」などに訳注をつけることができた。ここで出会った日高のシウンコツ(紫雲古津)村の鍋沢コポアヌからユーカラの中でも長大な「虎杖丸の曲(クズネシリカ、クトネシリカ)」の存在とそれを語れる盲目のユーカラ名人のワカルパを教えられる。京助が上田万年に相談すると、上田はポケットマネーで旅費を出してくれた。1913年(大正2年)7月、京助はワカルパを東京に呼び寄せる。約1か月の滞在中に14篇の2万行の詞曲と10冊1千ページにのぼる口述を筆録したが、ワカルパの故郷でチフスが発生、村人から祈祷を頼まれたワカルパは8月末、帰郷。ワカルパは村人たち一人ひとりに祈祷を行ったあとチフスに倒れ、12月7日に亡くなった。京助が彼の死を知ったのは年明けのことだった[22]

一方、1912年には白瀬矗の南極探検に参加した樺太アイヌの山辺安之助(以前より京助と面識はあった)が帰国した際に、山辺の口述する半生を筆記翻訳し、翌1913年に『あいぬ物語』のタイトルで博文館から刊行した(上下2分冊)[23]

1918年(大正7年)北海道調査旅行中に金成マツ宅で知里幸恵と知り合う。「ユーカラは値打ちのあるものなのか」と問う幸恵に京助は貴重な文学だと熱っぽく説いた。アイヌ語と日本語に堪能な幸恵を女学校卒業後に東京に呼ぶことを考え、ノートを送ってユーカラのローマ字筆録を勧めた[24]。幸恵は持病の心臓病が思わしくなかったが、1922年(大正11年)5月に上京、京助宅に寄寓する。幸恵のノートをもとに『アイヌ神謡集』出版の話が進んでいた。京助は今までわからなかったアイヌ語の文法を幸恵に解説してもらい、「頭脳の良さ、語学の天才」「天使のような女性」と絶賛した。このころ、京助の妻の静江は生活苦や相次ぐ子供の死(#家族 参照)から精神を病んでおり、四女の若葉を幸恵が世話することもあった。静江の姉が引き取って離婚させる話も出ていたが京助は「とんでもない。私がもらったんだから」と一蹴、妻に対する心配りはなかった。幸恵は『アイヌ神謡集』を書き上げ、9月18日、19歳3か月の短い生涯を閉じた[25]

1923年(大正12年)ヌッキベツのユーカラ名人黒川ツナレを訪ねる。亡くなったワカルパは「虎杖丸の曲」は途中までしか知らないので黒川ツナレを訪ねるとよいと言い残していた。しかしツナレは危篤状態で床についており、家族から面会を断られる。京助は何度も頼み込み、見舞いだけならと通される。ツナレと対面した京助はアイヌ語でツナレを称える挨拶をすると、ツナレは天井から吊るした帯につかまって体を起こし、「虎杖丸の曲」を語り始めた。行きつ戻りつしながらユーカラを語るツナレの元に村人が集まり「そんなものをツナレのユーカラとして世に残しては恥ずかしい」と京助の筆を止めようとしたが、ツナレは手を振って書き残してくれと言った。ツナレによってワカルパの「虎杖丸の曲」は途中ではなく完結していたことが判明したが、京助の強引な手法はのちに厳しく批判された[26]
研究の集大成

1931年(昭和6年)、京助畢生の大著『ユーカラの研究:アイヌ叙事詩』I・IIが刊行される。京助の晩年の随筆『私の歩いてきた道』では、「岡書院の岡茂雄に再三頼まれ、昭和5年執筆、6年出版、7年恩賜賞を受賞した」と回想している。しかし岡が晩年に記した回顧録『本屋風情』所収の「『アイヌ叙事詩ユーカラの研究』生誕実録」では異なる事情が書かれている[27]。最初、京助はこれまでのユーカラ研究を欧文の博士論文として東京帝国大学へ提出したが、審査の適任者を欠くまま大学附属図書館に置かれているうち、関東大震災で焼失する。これを惜しんだ柳田國男は、懇意にしていた岡茂雄に助力を依頼。岡は震災後バラックに住んでいた京助を訪ねる。岡の励ましと協力により、京助が邦文で新たに書き直した。岡の斡旋により、渋沢敬三からは毎月50円、出版の際は東洋文庫からも研究費が京助に届けられたりもした。こうして2巻合わせて1458ページの大著が出来上がった。岡は前述の『本屋風情』の中で京助が柳田や渋沢の配慮に触れず、あっさり書いたように流していることを「心底から残念に思っている」と書いている[28]

1930年(昭和5年)幸恵の弟知里真志保が京助を頼って上京、一高に入学。その後東大言語学科を卒業、久保寺逸彦に次いで京助のアイヌ語研究2番目の弟子となる。

1943年に刊行された『明解国語辞典』はベストセラーとなる[29]見坊豪紀は『辞書をつくる』(玉川選書)の中で「京助先生のお名前を借りて世に行われている国語辞書は十指に余る。その多くは、先生のお人柄につけ入って単にお名前を利用としたに過ぎないものである」とし、「その中にあって、最後の一行までじっさいに目を通して責任を分かたれたのは『明解国語辞典』だけである」と書いている。しかしほぼ見坊の独力により編纂されたものの、当時まだ東京帝国大学大学院に在学中の院生の名で辞書を出すわけにもゆかず、三省堂に見坊を紹介してくれた京助の名を借りることにした。京助の長男でやはり言語学者の金田一春彦によると、「金田一京助 編」と銘打った辞書は多いが、名前を貸しただけのことで、実際にはほとんど手がけていないという[30]

戦局が悪化する中、京助は日本の勝利を信じて疑わなかった。


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